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鮨の魅力は「一貫食べるたびに別の食欲が刺激されて次はなんだろう」と期待する

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すしの知識6「江戸を食す」すしの知識

NO21 タイの味

比較的長い時間、タイの味がおちないのはなぜか? 魚、は一般的に、死んでまもなく死後硬直という状態をおこす。 筋肉のなかで変化が起こり、糖分が乳酸になり、その乳酸がたんぱく質とついて、乳酸たんぱく質になり、これが堅くてコリコリしているため、ピンと張った状態になると考えられている。 このピンと張った状態のときが魚の味は一番よいとされている。 タイやヒラメのような泳ぎ方もゆったりした運動の少ない魚は、硬直状態がゆっくり始まり、そして長くつづく。 その上、これらの魚は消化酸素の力が弱い。当然、自己消化の速度もゆっくりしていて、身がくずれるのがおそい。 そのため、サバやカツオなどにくらべると、長く味が変わらず、もちもよいのである。


NO22 武士が食べられないもの

江戸時代には、町人は食べたが、武士は食べられないものがあった。それはコノシロ、マグロ、フグであった。
●コノシロは「この城」と言い、語呂合わせ、「コノシロを焼く」「コノシロを食う」を「この城を焼く・食う」で武士は縁起が悪く、落城に通じるとされたのだ。
また「腹切り魚」といって切腹を命じられた武士の最後の食膳にのぼることが多かったのです。ことからも、縁起の悪い魚とされ、 江戸幕府のお膝元ゆえ、江戸の方言の小肌にした。
●マグロは、別名で「「シビ」と言う。「死日」に通じることから、いつ命をおとすかもわからない武士にとって、この名は禁句であった。それゆえにマグロは下賤な食べ物として食べなかった。
●フグを武士は食べて毒に当たればお家断絶。
武士が死 ぬのは戦場であって、魚の毒などで死ぬのは武士にとってあるまじきことだったのだ。そのため、武士のほとんどは、明治維新までフグの美味しさをしらなかったのである。 江戸中期から鰒をよく食べたのは「卑賎」と言われた庶民たちであり、その美味を体験していた。武士たちは頑健にも伝統的な食生活を墨守していたのである。 その頃は、鰒が一匹12文程度であり、安蕎麦一杯が16文であるのと比較すれば、いかに安価であるかが分かる。


NO23 家康と佃島

     

江戸幕府の祖・徳川家康公が生涯忘れることのできない苦難に遭遇した時、佃村の庄屋・森孫右衛門が家康公を助けた物語は逸話として伝えられている。
武田勝頼の領地である持舟城(静岡市用宗)を攻め落城させたのは天正10年(1582)2月のこと。本能寺の変の3ヶ月前だった。
家康は安土城を訪れた後、堺を見物していた天正10年(1582年)6月2日の早朝、本能寺の変が起こる
岡崎城へもどる直接の退路が阻まれていることを知らされ、少人数の武装のない家康一行が、土民が落ち武者にとっていかに脅威にとなるか知り抜いていた。
一行が、神崎川(大阪市住吉区)にさしかかった時、渡る舟がなかったので焦りました。その時、近くの佃村の庄屋・森孫右衛門は、手持ちの漁船と不漁の時にとかねてより備蓄していた大事な小魚煮を道中食・兵糧として用意しました。
山越えし、やっとのことで三河岡崎城にたどりついたのです。
以来、家康の佃村の人達への信任は、特別強いものになったのです。その後江戸幕府の台所へ出入自由の佃島の漁民達は、江戸前の新鮮なシラウオを献上魚として、残った雑魚を江戸市中で商いし、激増に伴う町民の食生活を支える大事な漁業者として暮らしを立てていました。
幕府は従来の漁業者を保護してきましたが、漁獲方法が大変素朴でしたので、需要に追いつきません。そこで幕府は、漁業技術のすぐれた関西の漁民を優遇して、どんどん移住させたのです。
この孫右衛門は魚河岸の元となる店を開いたとも言われている。現在の築地にある中央卸売市場です。


NO24 義経千本桜

    

「義経千本桜」は、「菅原伝授手習鑑」「仮名手本忠臣蔵」と並んで浄瑠璃の三大名作といわれ延亨4年(1747)大坂竹本座にて初演されました。  
竹田出雲、三好松洛、並木川柳の合作で初演より大当たりを取り二ヶ月後には歌舞伎として上演されました。 全五段の三段目に当たるこの「すし屋」は家族の愛情を描いた、とりわけヒューマニズムに溢れる場面です。 (あらすじ)  
壇ノ浦に平家が滅亡した後も、三位中将維盛だけは、大和国の「釣瓶鮨」の店に、弥助と名を変えて身を潜めていた。そんな身分とは露知らぬ鮨屋の娘お里は弥助に思いを焦がしている。お里は父親から今夜祝言の杯をさせてやろうと言われたので嬉しくてたまらない。  そこへ突然、この家から勘当されていた権太が戻り、懐中の人相書きと弥助を照らし合わせ、何かをたくらんで二人を奥へやる。そして何時ものように母親に無心する。息子に甘い母親を空涙で口説いて、まんまと小遣銭をせしめる。そこにあたふたと父親の弥左衛門が帰ってきたので、権太は慌ててその金を鮨の空桶に隠して逃げ込む。弥左衛門は帰る道すがら倒れていた小金吾の生首を手に入れ、権太が金を隠した隣の空桶にそっと隠す。  一息つくと弥助を呼び出し、梶原平三景時に匿っている維盛の首を討って渡せと迫られたと打ち明ける。そして、「上市村の隠居所の方に忍んでくれ」と言って奥へ去る。  
維盛の妻、若葉の内侍は、幼い六代君の手をひいて道に迷い、計らずもこの「釣瓶鮨」の店に一夜の宿をかりようと立ち寄る。出てきたのは町人姿になった維盛(弥助)なので驚いたが、一別いらいの再会に、その喜びはひとしおだった。 
お里は初めて弥助の素性を知り、所詮、かなわぬ恋とあきらめて維盛親子を上市村の隠居所へと落としてやるこれを知って出てきた権太は「訴人して褒美の金にありつくのだ」と叫び、父親が首を隠した方の桶をひっ抱えるや一目散に走って行く。一大事と親父の弥左衛門が、後を追おうとした時、梶原が家来を引き連れて物々しく入ってくる。梶原の厳しい詰問に弥左衛門が困惑しているところへ、権太が首桶を抱え内侍と若君を縛って連れてくる。梶原は権太の手柄を賞賛して当座の褒美に頼朝公の陣羽織を与え、親子を引き立てて行く。計略が水の泡となり弥左衛門は怒りの刃を権太の脇腹に突き刺す。権太は深傷に苦しみながら間違えて持ち帰った鮨桶の中に首があったので、初めて父親の忠心が判り、自分の子と女房を若君と内侍の身代わりに仕立てて梶原を騙し、これまでの不幸を詫びるつもりであった。と打ち明ける。  
弥左衛門は初めて知る権太の心根に胸を打たれるが、時既に遅く我子を手にかけた悔恨の涙にくれる。瀕死の権太が吹く呼笛を合図に本物の維盛親子が姿を見せ、改めて権太に謝意を述べた上、さっきの頼朝の陣羽織に恨みの一刀を突き刺す。すると、中から数珠と袈裟がでてくる。

     

NO25 日本橋の魚河岸

元禄期(1688〜 )には日本橋魚市場(後に築地に開設)は活況呈していた。昼の芝居小屋が集まった芝居町(現在の浅草六丁目付近)、夜の吉原(現在の日本橋人形町)と並んで「朝の魚河岸は1日で千両動く」ほどに江戸の中でも大金が動いた。
「此橋上ヨリ御城ト富士山見エテ絶景ナリ」とある。
日本橋の魚問屋の悩みは幕府が毎日登城する役人の昼食を出す為に魚介類を悪名高き「手付け」と呼ばれる係りが魚河岸をまわり「御用」と叫び、格安の値段で納入してしまう。 商売にならないので魚を隠すと「御肴役所」を設置してごまかしができないようにした。


    

NO26 ハレとケ

「ハレとケ」という言葉がある。ふだんの生活である「日常」を表している。また、ケの生活が順調に行かなくなることをケガレ(気枯れ)という。
ハレの日には江戸時代は餅、赤飯、鮨や酒で飲食をした
「ケ」ふだんの生活である「日常」を表している。 生活が厳しいときはケガレ(気枯れ)という。又、非人道的行為をする人をケガレていると言う。 江戸時代の修行の身の鮨職人は寒いこの時期、冷たい水を使い「コハダ」など仕込みして、毎日々が同じことの繰り返しであった。普通は毎日同じことをやっているといやになるものである。江戸時代では人為的に「ハレ」を作り出して、祭り、能狂言、正月などの行事である。


NO27 握りずしとつけじょう油

「江戸前の握りずしは、しょう油をつけてたべるものか、それとも、つけずに食べるものか」 いまは、握りずしはしょう油をつけて食べるのとされているが、これは食べ方としても、おかしな話である なぜならいうまでもなく江戸前鮨の特徴はいろいろ違ったタネ(ネタとはすし屋は言わない)の持ち味を生かして、それが飯(すし用語ではシャリ)と調和(なじむ)するところにあるのだから、それを、つけじょう油につけることによって日本食の基本である十色の味を一色に近づけて食べるのはというのは感心できない。すし屋にしても、それではなんだか馬鹿にされているようなものである。
まして、タネだけズルリと剥がして、それにしょう油をベットリつけたタネをまた、もとの飯の上にかぶせて食べられたのでは、見ているこちらのほうもガッカリさせられてしまう。
もっとも、そのくらいにして食べなければ旨くない握りも、昨今ではままあるのだから話は面倒である
だが、昔(明治末期まで)は、つけじょう油なしで食べられる握りが普通だった。 結局、つけじょう油とは前処理や煮きり(生醤油を自家製の味に)を使わない純生物をタネとした握りずしの出現によって必要となったに違いない。
そして、純生物のタネを使うということは、江戸前伝統の技術からいえば一種の逃げ仕事であった。


NO28 煮きりと醤油

搾りたての生醤油は、本来の味と香りを大切にするので醤油自体に一切味付けをしないので、すぐにカビが発生します。
普通の醤油はしぼった後に加熱殺菌をして、保存性はよくなりますが、反面醤油本来の香りの良さがなくなります。
日本酒『生酒』の吟醸や大吟醸が冷蔵することで腐敗を防ぎ、流通されています。これをヒントに搾りたての生醤油も、冷蔵することにより本来の味と香りを大切にした生醤油が流通販売されております。 江戸前鮨屋では生醤油の強い香りが、淡白なすしの味がこわされてしまいますので、そこで江戸時代から「煮キリ」といいまして生醤油を、各店独自の工夫で味を作り上げております。
かっての醤油はカビが生え、そのため使用前にこれを漉して取らねばならなかったが、現在ではまずその要はない。また、クセが強かったためか、生醤油のままつけさせるよりは、味醂やカツヲのだし汁等ともに煮て醤油の臭みを飛ばした「煮切り」がよく用いられた。


NO29 散し鮨

『風俗画像』(百六十号、明治37年5月刊)の「御講汁及馴鮨」に(すし研究に欠くことのできない資料として有名)「按ずるに鮨はもと一旦漬けておいて食うべきなるべし・・・・・今東国の握鮨なるものは、その漬けるに換えるものか、いえ故に早鮨の称あり。是によって考うればかの散し鮨なるものは鮨の本意に非ざるべし。おもうに東国人の性急にして迅速を貴ぶの風あり。故にかくの如き物に至ても待ことを嫌うよりして今の如き調整に遷りしもか」とある。
すしとはすべて馴れた味覚の育成を基本として、その製法がなされるべきだ。単に鮨飯のうえに具(飯のうえに並べるタネを昔は「上(うわ)ぶき」といった)をならべるだけの現在のようなちらしに対して、すしか否かの論がでてくるのは当然ともいえる。
専門のすし職人にすしの基本的味覚の出所をふまえた論として注目に値する。
鮨として生まれながら鮨らしからぬものへ変わってしまう、といったこともある。


NO30 散し鮨の製法

五目(ごもく)は野菜類の具を飯に混ぜるものであり、飯の上に具とタネを並べるのが散し(ちらし)というのが定義。
タネの並べ方をすし屋間では「吹寄せ」と呼び、「それぞれのタネが少しずつ重なるように並べるのがコツで、入れ物のどこから見ても美しいようにしろ」と教えられている。
参考:飯に混ぜる材料を「具」という。
明治末期のちらしずしの製法
・材料
 「椎茸、木茸、玉子、おぼろ(芝海老)、小魚、貝類(その季節のもの一種)、海苔飯、生姜、以上の材料  を調えましす」
・盛り
 「海苔酢飯を軽く器に盛り、椎茸(半個)、きくらげ少量を混ぜて海苔飯の上に振りかけ、その上に薄焼き  玉子を短冊 形に細くきり適宜にしき、なおその玉子の上におぼろをまき、上ぶき(小魚や貝類)をかけ、  生姜をそえてすすめます。
・海苔飯
  「薄き海苔(海苔巻に用いる海苔より粗きもの)を強き火にて青くなるまで焼き冷めぬうちに細かく折り裂き両掌にてよく摺り揉み細末にしてすし飯に混じ、竹箸を使ってよくかきまわして合わせるのです。飯に混ぜる海苔の分量は五合の飯につき、前記の海苔五枚のわりです」
・ 上ぶき
「これは季節によって次の種類のうち一品を選び、細かく短冊形などの切って用います。白魚は江戸前なら六,七尾位づつ一人前に用います。小鯛、さより、きす、鯵、白魚、赤貝、みる貝。」       
・器
 普通小丼を用いますが薄手のやや深い小皿に盛ります方が上品になります。」       
・注意
「上ぶきの上に更に少しの木茸をふりかけますと体裁がよく見えます。」「叉上ぶきの他に小海老を適宜に切ってあしらえば色彩りよく見えます。」
「鮓店で蒲鉾、烏賊、章魚(たこ)、あなご等を上ぶきに用います。  揉み海苔を鮓飯に混ぜるのは、当時ほとんどのすし店でやっていた仕事だ。 明治中期までは海苔ばかりでなく、しいたけ、かんぴょう、きくらげなども飯とまぜるすし屋が多かったという。


NO31 穴子の煮方

7月中旬〜9月初旬までが江戸前アナゴが美味しく召し上がれる季節です。昔は羽田、大森、生麦、浦安のアナゴが代表的な産地でした。
多摩川、荒川の水が流れて、真水が多く。一方江戸川の水が流れる千葉県側は塩分が強いとされていた。したがって江戸前のアナゴでも潮の流れで羽田沖と千葉県沖では違うと言われている。       
東京浅草の老舗すし店ではメソアナゴと言って15〜20センチ位の丸付けの穴子を好みます。水でぬめりを取って、鍋に白砂糖、酒、薄口醤油を入れ、沸騰したらアナゴを10本〜15本位入れ、落し蓋をする。   叉、沸騰したらアナゴを表裏返して、ザルにあけて冷まして白く煮る。この煮方を「さわ煮」と言います。
一方アナゴが40〜50センチ位のアナゴは煮方が違います。霜降り、水炊き、煮るの工程です。沸騰したら弱火で1時間位煮て、蓋をしたまま煮汁が冷めるまで置きます。そうしますと骨は柔らかくなり、      味も滲みこみます。この煮方を「漬け込み」と言います。 


NO32 蛸を茹でる。煮る

魚屋・スーパーで店頭売りされているたこは時には固くて、歯切れが悪い経験をお持ちかと思います。 江戸前の鮨屋では二通りの仕込み方があります。 動いている活蛸を仕入れする。胴(頭ではない)をひっくり返して根元から切り落とす。 その後塩でゴシゴシとこすりぬめりを取ります。 ●茹でる方法 焙じ茶(ほうじちゃ)を煮出し、水を沸騰させ、塩を塩梅よく入れます(ショッパイ・辛いは駄目) その中に焙じ茶いれると、紅茶色になります。煮立ったら蛸を足から入れます。 蛸は茹でると真っ赤になりますので焙じ茶は地味な色にする為に使うのです。 最初は足が巻きついてきますが約30分間茹でますと足が伸びてきますのでその時タイミングよく火を止めます。 茹でた蛸は煮汁が冷たくなるまで鍋から出さずにそのままにして置きます。そうしますと柔らかく仕上がります。 ●煮る方法 桜煮と言いまして日本料理からの伝承されている仕込みです。 沸騰した湯に足をくぐらせる。別の鍋に酒と水をいれ沸騰させる。 煮立ったら足から入れる。ザラメ・醤油・小豆 入れる。沸騰したら弱火にして3時間(蛸の煮上がり状況を見て時間調整をする1時間〜3時間)コトコトと煮る。 こまめにあく抜きをする。火を止めたら煮汁が冷たくなるまで鍋から出さずにそのままにして置く.大体4時間で冷めます。 当店は桜煮で仕込みしております。 柔らかく、色つける煮る方法は小豆を入れますと赤く煮れます。このように茹でる、煮る方法で多少の違いはあります。


NO33 コハダは塩と酢で決まる

美味しさの決め手
1、素材のコハダは「めまわり」が揃っている 注:「めまわり」とは魚一尾の大きさのこと コハダは脂ののり具合、厚さ、大きさ、季節(温度)により塩の時間をどの位にするか決めるので、 「めまわり」が揃っていて、鮮度の基準は目玉がみずみずしいスカイブルー色をしたコハダを選ぶこと 一貫のにぎりに一尾のコハダが使用される大きさが理想 幼魚の新子は8月〜9月頃で一貫で3尾使う
2、振り塩の時間は長年の勘で塩加減を決める 大きめなザルに背の方を下にして荒塩で振り塩します。 塩加減はコハダの条件に合わせてカンで決める (親方から教わった職人の門外不出の塩加減。シャリの調合の塩も同様)  振り塩でしめる仕方とたて塩(濃い塩水)でしめる方法があります
3、水洗い(塩出し)したコハダ コハダの表面の水分とコハダから出た余分な脂肪分を洗って流します そうしますと酢がしみこみやすくなります
4、「酢洗い」を二番酢で酢洗いをする  注:二番酢とは前回本漬けで使用し残しておいた酢叉は、水と酢を同量で混ぜた酢  コハダは青魚の生臭さがありますので本漬けの前に生臭さを取ために一枚一枚ゆすぎます  ゆすいだコハダ5枚位重ねて手のひらで押して余分な酢をきり、30分位おきます  ポイント:酢洗いをきちんととすれば生臭はなくなり、美味しいはここで決まります。
5、本漬けは一番酢で漬ける  つけ具合は時間に頼らないで自分の目で見て決める(職人により時間に差異があります) 余分な酢を切り馴染ませる為一晩以上立てかけて冷蔵庫に入れておきます 2日目に召し上がるコハダが一番で、当日には握らない事です。 修行時代、魚を最初に扱わせてもらうのがコハダで、江戸前の鮨の技術の基本中の基本です コハダの脂・塩・酢の調和でお客様に満足いただける江戸時代から変わらぬ粋を見せる伝承加工技術です


NO34 シャコの漬け込み

蝦蛄を車子とかしゃこと読んだり書いたりしております。まわりが海老と同じように殻におおわれています。当店では生のしゃこを年に一回程度仕入れするこがありますが、殻からはがすことが難しい仕事です。
叉、足が早い(傷みが早い)ので魚竹寿しではほとんどが産地で茹で上げたものを仕入れいたします。江戸前の「小柴」産が良質で特大・大のしゃこは手に入りにくいです。
しゃこは蒸し器で少々蒸します。鰹のだしを引いて、砂糖・味醂・醤油で煮立てそばつゆ程度の「漬け込み汁」を作ります。その中にしゃこを漬け込みます。冷蔵庫に入れて一晩漬け込んでおきます。
蒸し器で蒸すとしゃこの鮮度の良し悪しが臭いでわかります。

     

NO35 玉子焼(ケラ焼)

当店では3種類の玉子焼きを焼きます。
■玉子焼き(薄焼き玉子)は「つぶし」の生身(白身魚・海老)をすり身して、「わり」の砂糖、酒、塩、味醂、醤油を玉子で割って焼きあげます。 焼き方は長めの菜箸と脱脂綿を使い玉子鍋に食用油で皮膜を作り熱くなっている玉子鍋を適温まで下げ(手のひらを当てて感じ取る温度は長年の経験で判断)玉子液を入れ、弱火で焼きあがってきたら、さい箸でクルクルと玉子鍋と玉子の間をはがし、表面に未だ焼けないで残っている玉子液を下の鍋に落とし、玉子全体をさい箸二本でひっくり返します。この瞬間は職人技・名人芸です。専用の落し蓋で焼きを待ちます。 柔らかさでは出し巻玉子には及ばないが深い味わいがあります。 玉子焼きとは昔から薄焼き玉子のことでして、厚焼き玉子が作られてくるようになったため薄焼き、厚焼きと区別するようになりました
■厚焼き玉子(カステラ風)は薄焼き玉子の調合の2倍の量で焼きます。鶏卵は12個使用します。 だし汁は使用しません。上下から火をあてて一回で両面を焼きます。玉子液の焼けてない表面の部分は空気を抜きながら じっくりと当店は55分の時間をかけて焼きます。
■出し巻玉子は玉子と「わり」といいますだし汁、砂糖、塩、醤油を使い何回も重ねて全体としてフンワリと仕上げます。 本来は日本料理でお出ししていた玉子焼きでした。鮨の玉子焼きではなかったのですが、現在は7割くらいのお店がこの玉子焼を使っております 河岸玉と言って専門業者から仕入れするか自家製かはそれぞれです。

     

NO36 すしの食べ方

すしの食べ方は自由であり、どれからたべてもよい。 昔はその店の味をみるのには始めに酢で〆たタネ、コハダ、アジ。 次に煮たもの、アナゴ、シャコといったもの、最後に玉子焼きか、のり巻き(かんぴょう)、 どれもすしの味を生かしもし、殺しもする品物であるので、そんな順にたべれば、 たいていその店の腕前が判るといわれたものである。
しかし、好き不好きがあるので、どれからたべても悪いという規則はない。 しかし、立ち食いのエチケットはある。
1、つけ醤油を使う場合はシャリに醤油をつけない。 タネとシャとを横にするようにして、同時に舌に直接触れるようにして口に押すようにして入れる。 これはタネのうまさと飯のうまさを舌ですぐさま味わうということが、立ち食い醍醐味である。
2、立ち食いは箸を使わない 箸を使うなら立ち食いをする必要がない
3、中には箸を使ってタネだけを醤油にひたして、それを再びシャリの上にのせてから食べているお客がいる。  すし屋泣かせである。
4、煮ツメをつけるアナゴやタコ、シャコのようなタネのものに醤油をつけるお客がある。  習慣性もあるか知れぬが、これは頂けない。
5、つけ台の上にすしをいつまでも放り出しておくのもやめたほうがよい。
6、また、食べているのに次の注文を出すのもやめたほうがよい。

     

NO37 スルメイカ

昨今は茹でたイカのご注文が少なくなりました。当店ではご年配のお客様には根強い人気商品です。
耳タブの硬さ程度に茹でた(茹で過ぎると硬くなる。 )後に煮立てた煮汁にイカを入れ、 箸でころがして味を整える。
甘い煮ツメをぬって食べる煮いかのすしは格別に美味しい。 スルメイカの場合、生よりも煮たときに味がぐんと増す。
叉、昔は甘酢に漬けた酢イカが定番であったが、嗜好の変化でメニューから消えてしまいました。

     

NO39 浅草海苔

江戸の中期までは江戸の味覚といえば上方(大阪)から「下りもの」で江戸中〜後期にかけて江戸の独自のものが、江戸で生まれた。当時は海に近かった浅草を物資の流通拠点としたことから浅草と海苔の関係が生まれる。
上方(大阪)に流通した最初の商品が海苔である。しかし、埋め立てが進むにつれて浅草では海苔の採集ができなくなった。 その後、葛西浦中心に海苔採集がなされた。
寛延2年(1749の263年前)海苔の発生に不可欠な貝類が江戸川の氾濫で埋まってしまい漁具や浮遊物に付着する海苔を採取する漁法はできなくなる。
それ以降の享保ころから始めていた品川に生産地は移る。このころから「そだひび立て」による養殖が始まり生産量が増大した。 享保2年(1717)ころ品川浦で始まった海苔養殖は天明ころ盛んになり、江戸の名所になりました 。
江戸時代末期になると品川の養殖は衰退し中心は大森に移る。生産者の大森の生産者は日本橋ののり商と取引を拡大したので、浅草ののり商人は凋落し、浅草は「あさくさのり」の名前だけを残して脱落する。
需要が庶民に浸透していく手助けは江戸市中を天秤棒で担いで売り歩く「振り売り」であった。 地方に売りに出る「旅師」も、長野県諏訪の人達であった。 山国の諏訪の人たちは厳しい冬を江戸に季節的出稼ぎで海苔を売り歩いた。 のり養殖の技術を地方に持ち出したのも諏訪の人達であった。
江戸式製法が始めて箱根を越えたのは文政2年(190年前)のことであった。(握りずしが考案された時期に重なる)
遠州舞阪の旅籠で始めて生のりを食べた旅師諏訪の百姓、森田屋彦之丞は大森ののりと同じだったので地元に養殖をすすめた。 その後、森田屋は大森から製造法をもらしたと村八分にされ、その後の消息は知る人はいない。
叉、同じ文政2年(190年前)に田中孫七は大森(東京都)の海苔養殖業者で駿河江尻の旅籠 (静岡県静岡市清水区)で三保海苔をたべたところ、大森ののりと同じと判り三保村にまねかれる。同地の遠藤兵蔵らを指導し、文政9年「そだひび法」による海苔の養殖に成功。天保(179年前)年間には清水、江尻にも海苔養殖がひろまった。大森の田中孫七宅は留守宅を壊される仕打ちを受ける。 それほどに江戸湾ののりは閉鎖的な生産、流通のもとで成長してきた。 舞阪、三保の境内で現在も碑が建てられております。

     

NO40 ひやかしの語源

吉原が明暦2年(1656)江戸の大火で焼けてしまい、幕府は吉原の遊郭を浅草に移転させました。 この地には紙すきの工場があって、紙をすいて仕上げるまでに、紙をしばらく水にひたして冷やしておく工程があり、これを「ひやかす」といった。その間、職人たちは暇なので、近くの吉原の遊郭をのぞきに行ったという。    すしの浅草海苔も浅草紙の漉き方など製造方法を真似て作られました。 のり職人ものりを冷やしておく間で吉原の遊郭をのぞきに行ったという。 そこで、買う気もないのに店をぶらついたり、値段だけ聞いて買わないような客のことを 「ひやかし」というようになったのだ 乾し海苔(のり)の大きさや製造法のもとになったのが「浅草紙」です。海苔1枚(全判)の標準サイズは縦21cm×横19cmで、ティッシュペーパーと同じサイズです。

     

参考文献 吉野f雄著 「鮓・鮨・すし すしの事典」

参考文献 著者 吉野f雄 「すし技術教科書」

参考文献 すし物語 宮尾しげを著 昭和35年発行