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鮨の魅力は「一貫食べるたびに別の食欲が刺激されて次はなんだろう」と期待する

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すしの知識12「江戸を食す」すしの知識12

NO141 鮨新聞 初夏から夏にかけての鮨

江戸前技術で極上の鮨を仕立てる 鮨の握りに「伝統、伝統とこだわりすぎても如何なものか」と思う方がおられることは承知している。鮨も伝統や古い仕事だけでは成り立たなくなっていることも事実です。
歌舞伎役者故18代目中村勘三郎さんは古典的演技を身に着けたうえに現代風歌舞伎を演じ若いフアンの掘り起こしを成し得たからこそ価値があるのです。 鮨屋もある程度は現代社会のニーズに合った技術も必要であり、シフトも必要である。 しかし、根底にある古典的な正統派技法の部分がなおざりになっていたら、それは江戸前鮨とは呼べないのではないか。
お客にしてみれば新鮮だけが売りの店で「美味しい!美味しい!」とたくさん食べても飽きがきて何か物足りなさを感じ取られるのも事実で江戸前の技でこの新鮮な魚介類を食べたら最高の至福ではないか。
「シャリの味付け」「魚介類の締めと漬けの技術」の一体化 「すべてのすしダネに合うシャリ」というものはないでしょう。シャリの味は店それぞれに個性があります。
初夏から盛夏にかけての登場するトロマグロ、アナゴ、シャコ等脂がのった魚介類に相性が良いのは「酢と塩の効いた強めの味」の古典的(東京)なシャリ。 静岡県の鮨屋のシャリは「砂糖を少な目に酢と塩の味」で昆布〆のスズキ、シマアジ、カンパチ等の白身魚やコハダ、アジ、カスゴ、キスなど酢〆の魚に合います。 古典的な技法 5月、6月はすしダネの端境期である。春の魚は旬を過ぎ真夏まではまだ早い。この間のすしダネを取り揃えて「ああッ 旨いなッ!」と声を出させることは難しい。
冷蔵庫がない時代、夏の鮨屋は魚、貝類が少ないので商売にならなかった。 静岡県はマグロを看板にしている鮨屋が多い。マグロの醤油漬けは「ヅケ」と呼称し、古典的な方法としては湯霜(熱湯を表面にかける霜降りのこと)にした後、漬け汁に数時間(店により差異あり)漬け込むのです。ヅケは生とは一味違います。
アナゴには二通りの煮方がある。 東京の高級店では「メソッコ」(小さなアナゴ)を「さわ煮」と呼ばれている煮方で尾尻を折り込むように一本丸ごと一貫づけで握る。 一方、普通の店では一尾を三切れくらいに切る大きさのアナゴをとろけるくらい柔らかくなるまで煮込む「漬け込み」がある。
シャコは水温上昇で江戸前から消えました。蒸し器で少々蒸し、鰹のだしを引いて、そばつゆ程度の「漬け込み汁」に一晩漬け込みますと「こんなに美味しいのか!」と古典的な鮨となる。
江戸時代から千葉県大原で獲れるマダカアワビが最高と呼ばれ現在は幻のアワビとなっているのでクロアワビがすしダネとし主流。蒸したアワビを厚く切らずに薄く切りつける方が香もあり味も良く、生より蒸しアワビの方が好まれ美味しい。
光物の魚と言えば9月~2月までコハダ。3月~4月サヨリ。初夏の5月~6月はキス。真夏の7月~8月はアジであったが最近は季節感が崩れている。 江戸時代コハダ握りは秋から冬の味で夏にコハダを漬ける鮨屋は無かった。 脂がない夏のコハダを冬のコハダのごとく旨みを引き出す古典的な技術・手法を守って包丁目を細やかに入れて、口の中で皮目が柔らかく感じられるように漬けてある鮨屋があること自身珍しくなっている。 現在、皮つきの小アジを酢〆にして甘味のオボロをかませる鮨屋は少なくなった。アジは生で握るのが主流なのでゼンゴを取る技術を今は必要としない。これも時代のニーズであろうか。
クルマエビは茹でたてを甘酢に漬け込み、尾殻は「化粧する」と言い、切り落として握る。
玉子焼きには柏餅のように「かしわづけ」という形でシャリを包んで握る。
一方、白身魚や海老、山芋などをすり身にして「カステラ風」に焼き上げて鞍掛けの形で握る玉子焼きがある かんぴょう巻は戦前までは三つ切りが普通であった。これを江戸ッ子は遊び言葉でチャンチキ(馬鹿囃しの太鼓の撥になぞられて)と呼んだ。
かっぱ巻、おぼろ巻は合間に食べるお茶うけ代わりの巻きずしで一本を八つに切る(八つにおろす)と約束事になっていた。
技術の発展に貢献は「部屋制度」 昔、鮨屋の調理方法は門外不出で情報が開示されることがなかった。 鮨職人は十歳くらいで丁稚奉公という形で修業に始めた。そして、十年くらい修行して二十歳くらいで一人前の鮨職人になれた。
戦後、兵役を終え職業につけない職人を明治生まれの先駆者たちが今で言う人材派遣会社的な「部屋」制度をつくり職人を必要とする鮨屋に斡旋した。 鮨屋から鮨屋へと職人同士が交流されたことにより技術の伝承と進歩が一気に全国的に広がったのである。 現在でも老舗で名店と言われている鮨屋の先代たちはかってこの部屋に所属をしていたので、江戸前鮨の古典的な正統派技法を今でも正確に守り続けているのである。


     

No142 シャリ

    

すし屋ではすし米を「シャリ」と云う。仏教信者が有難がる仏舎利から頂いて漢字では「舎利」と書く。 「すし米は十分に吟味した「古米」でなくてはいけない。新米は普通用いない 秋田、新潟、富山県の米どころのものが良い。 良質、純白,透明、光沢、硬質、小粒、丸味、粒揃い、乾燥され、重みのあるこれらの条件のコメが良いとされている。
これらのコメでも新米は特有の触感が出てこない。そこで古米が使われる。新米と古米を混ぜ合わせる(ブレンド)のは邪道と・・・」 すし物語の著者 宮尾しげを氏は言い切る。 「いまどき薪で飯を炊くなんて理想的すぎる。ガス釜を使って薪で炊いたのと同じコメを炊くことを研究することが大切と・・・」 日本橋吉野鮨本店3代目は云った。
TPP参加であるが 他国が国産米と同品質のコメを作れると云う前提に立った価格比較は如何なものか。 すし屋が必要とする古米で品質条件に見合うすし米を提供してもらえるのか? 高温多湿は日本の風土に合ったコメも近年の温暖な気象条件の影響が出ていることも事実として受け止めなければならない。 国産米の一辺倒だけが良いのか時代の変化にシフトしながら店の独自の味というものへの挑戦が商売の基本だけにすし屋のコメに対するこだわりは続くのである。


No143 鮨新聞 歴史から学ぶ基本的姿勢

    

鮨の伝統と商売とのバランス お客さんが「今日はなにがあるんだい?」「今日はヒラメにタイ、スズキも・・・」「スズキ?時期がはずれているよ」そんなお客が昔はいた。
今はマグロ、アナゴ、アジ、コハダなどは定番タネとして一年中タネケースに置いておかねばならないのは一般的である。 江戸時代コハダ(江戸方言)は下魚であったが酢締めの技術で握りずしの代表的タネになった。コハダの質がいまひとつだったとしても仕入をやめるわけにはいかない。微妙な違いをどこまでも追及し、一年を通じていろいろな漬け方がある。それを決める技術でコハダの鮨を作り続けなければならないのは職人の大切な仕事なのである。
江戸の道具作りの職人は「自分を名指しで注文してくれる人に対して仕事をする」という客へのスタンスや独特なスタイルが今でも根底にある。商人は手広くいろいろな人を相手にするので世辞も愛想も使う。職人と商人の価値観や職業意識は異なるのも事実である。 しかし、現在は伝統一筋ではいけない。職人も伝統を残すために対価を頂き商人(あきんど)としてもお客様が感動する仕事とのバランスをとらねばならない。社会の環境が変わろうとも自分に課せられた仕事を大事にやることの積み重ねが商売の継続であり自分の伝統を築き上げることにもなり得る。しいていえば江戸前鮨の継承にもなる。 江戸前鮨ができる以前の光り物        駿国雑志とは駿河国(静岡県中部)の地誌で旗本阿部正信が江戸時代、文化14年(1817)に駿府に1年間の赴任中に駿河国中を見て回り、調べた資料を元に編集したものである。 鯵(あじ)について「有渡郡廣野村(静岡市駿河区広野 用宗の隣村)の浜には、小鯛、大鯵、雑魚数多かゝる・・・。當國。鰶(コノシロ)喰ふ者少し、故に多く鯵を鮓(すし)にす・・・。すべて鰹、鯖、鯵等鉑と號て、雲母の如きも皮上にあるは、必毒ありて酔事あり・・・」と記述がある。
海面上層を泳ぐコノシロ、アジ、サバ、イワシ等は水圧を強くうけないので、肉質中に多量の水分が含まれている。陸揚げすると腐敗菌が急激に繁殖する。表面はみずみずしく、新鮮らしく見えても内部は腐り始めている。 すなわちキラキラと光る魚は皮上に毒があるので腐敗し易く腹下しすると言って刺身にして食べることを厳しく戒めている。米酢は高価なので村人は梅酢に漬けたと父から聞いた。
その後、江戸前鮨が始まった文政年間(1818~1830)コハダ、アジ、サバは振り塩、二番酢、本酢で細菌、臭みの除去、たんぱく質を変性させて生とは違った食感となる鮨を作り上げたのである。
ヅケと言えばヒラメかタイ 「駿国雑志よれば文化15年3月(1818)有渡郡下島(静岡市駿河区下島。安倍川の東側)村邊に鮪寄事数百尾、故に生肉を捨て、田間のこやしとせり。是百有餘年の大猟也。云々。」とある。 握りずしがすでに生まれていた、天保年間末(1844)江戸でも鮪(マグロ)の大漁が有り、保存方法が無かったので路上に野積みされた。 そこで馬喰町の屋台店恵比寿鮓が試みたのが生魚に用いていた醤油漬けの調理方法をマグロに試みたまでのことである。
今日、ヅケ(醤油漬)と言えば赤身マグロに限ったように思われていますが「これは甚だ不見識・・・」と
「こみあいて待ちくたびれる与兵衛すし客ももろとも手を握りけり」と川柳にもたびたび詠まれた江戸前鮨の開祖華屋與兵衛の晩年の当主は俳人でもあった小泉迂外(清三郎)が明治43年刊「鮓のつけかた」に記述がある。 当時、生魚に限っては醤油漬したのでヅケ(漬け)と言えばヒラメとかタイなどであった。
これは保存、流通が確立していない時代の話。 「明治期までは、生魚はみな原則として一度酢にくぐらせて、更に醤油をくぐらせたが私見では賛成しかねる。これでは、せっかくの味に傷がつこう・・。」と吉野鮨本店(日本橋)三代目 吉野曻雄氏
その後、古典的仕事としてヒラメやタイ、カレイを薄塩にし、板昆布にはさみ軽く重石をかける。これは空気にふれさせないための工夫であった。それがいつのまにか「こういうふうにすれば美味しいんだ」といっそう美味しく食べるための手段として派生的に昆布締めにかわってきた。
尚、付け加えておきますと「江戸にては、大きなる物をひらめ、小いさなる物をかれいと呼ぶ・・」ヒラメは江戸方言である。
また、マグロも江戸の方言であり、関西地方は奈良時代からマグロ(キハダ)をシビと言った。 切り漬けという仕事 古い調理法の仕事で切りつけしたタネを、醤油、甘酢、生酢などで洗うことを切り漬けといい、アジ、エビなど今でもする仕事で「ヅケ」の一種である。
ヅケの調理法には二種ある。 一つはすしダネを切りつけけしてから漬け込む方法。(元来マグロのヅケとは切り漬けして醤油漬けした) もう一つは魚をある程度の大きさに節どりしたものを、そのまま漬ける(サバ、サワラなど酢漬けが多い。最近はマグロを湯引きする方法がある)
煮きりとつけじょうゆ 江戸時代から「煮キリ」といいまして生醤油に味醂、酒、かつおだし汁などを加え、煮たてて醤油の臭みを飛ばした「煮きり」がよく用いられている。 すしダネの上にぬって「しょうゆはつけなくてもいいですよ」というときに使われているのが「煮切りじゅうゆ」で、マグロのヅケにも使われる。
いまは、握りずしはしょうゆをつけて食べるものとされているが、これは食べ方としても、おかしな話である 全てのタネに手を加え、旨味を引き出す鮨を漬ける日本食の基本である十色の味を一色に近づけて食べるということになり感心できない。
そのことの良し悪しは述べることは出来ないが、江戸前鮨の基本的技術から比較してみますとおろそかになりかけていることが寂しくもある。 食べる人それぞれ好みもあるでしょうが、しょうゆはたっぷりつけずにタネにわずかにつけて、すし飯といっしょにひと口でたべると、しょうゆがすしの味を引き立ててくれるのである 鮨屋の基本的姿勢 鮨屋という商売は「お客様の好みに合うか合わないか」で成り立っており、 それぞれのお客様によって味覚が違いますので、全ての方にお客様になって頂けるなんて到底無理なことです。 江戸前鮨はこの道の先駆者の方々や、親方、先輩などが試行錯誤の結果出来上がった鮨なのです。 勿論、自分自身はこの習い覚えた古典的な技術、知識が絶対とは申しませんが少なくと、ごひいきになさっていただいているお客様がおられる以上ひたすら教えられたことの繰り返しの仕事をして、商いをさせていただいております。 「あの店でしか食べられない鮨」で商いをするという基本姿勢でなければならないのです。 「立ち食い鮨の魅力は一貫食べるたびに別の食欲が刺激されて、次はなんだろうと期待する。江戸前の鮨には工夫がある。これほど底が深い食べ物は世界中さがしても他には見当たらない・・・」と語った某作家を思い出す。 そんな鮨を漬ける幸せは職人冥利につきよう。


No145 ケラ玉

江戸前の厚焼き玉子、薄焼き玉子をケラ玉と言います。 日本刀等日本古来の製鉄法で産み出される鉄をケラと言いケラは不純物が極めて少ない。 そんなことからエビや魚のすり身を加えて焼く古典的な玉子焼きをケラ玉そして玉子焼き鍋をケラ鍋と言いまして寿司業界用語です。 只今、焼きあがりました。


    

NO146タコは縁起物

足が八本と末広がりで縁起が良い。 合格祈願には、たこの吸盤は、合格を吸い寄せると ひっぱり蛸です。 強い吸盤で福を吸い寄せる、タコは"多幸"に通じ、幸せを呼ぶ海の幸として昔から珍重されてきました。


NO147 あさりの握りずし

「深川ずし」と言う。現東京都江東区内の一地名 江戸前や伊勢湾のあさりは、身も大きく滋味豊かです。 あさりをむき身にして良く洗い、沸騰したお湯に入れて、軽く火が通ったら、笊(ザル)にあけ、ぬれ布巾をかけておきます。 あさりの汁に酒と砂糖、薄口醤油を入れて、煮詰めてはまぐり汁よりあっさりした漬け汁を作ります。 あさりはひらいて、ワタを取り除き漬け込みます。笊(ザル)にあけ、汁気を除きます にぎる時は、1貫に3~4個使いツメを塗ります。


NO148 さがや(符牒)とは

「サッと軽く酢にくぐらせてから昆布〆したサヨリを8真一文字に握り、淡白なゆえにチョットおぼろ(さがや)をのせる」 「酢の効いた粋なコハダ(小肌)は包丁の切れ目が2本入り、シャリにおぼろをかませて握る。」古来の江戸前の握りずしである。
すし屋同士で使う口頭符丁で「おぼろ」を「さがや」と呼ぶ。
浄瑠璃の常磐津節の詞章「忍夜恋曲者(しのびよるこいはくせもの)」。通称「将門(まさかど)」の歌詞で 「嵯峨(さが)や御室(おむろ)の花盛り、浮気な蝶も色かせぐ、廓(くるわ)の者に連れられて、外(そと)珍しき嵐山(あらしやま)」から御室をおぼろに掛け、その枕詞の呼びかけの嵯峨や~を洒落て言い換えた このように江戸庶民は当時の芝居人気からすし屋の用語にとり入れた。
「忍夜恋曲者」とは天保7年(1836)に歌舞伎で江戸市村座が初演。 筋書きは 天慶(てんぎょう)の乱で横死した平将門(まさかど)娘、滝夜叉姫(たきやしゃひめ)が父の遺志を引き継いで蟇蛙(がまがえる)に変身謀反を企てるというもの。 平将門は平安中期の下総(しもうさ)=千葉県北部、茨城県西南部を主たる領域の武将。 平将門の死後、源頼信の命を受け残党の捜索に来た大宅太郎光圀(おおやたろうみつくに)が相馬の古御所(下総の国、相馬の城)に妖怪が出ると聞いて大宅太郎光圀が正体を見届けに来ると、どこからともなく"傾城如月"(けいせいきさらぎ)が現れる。傾城(美人の意)は如月と名乗り「嵯峨や御室の花盛り」の折に光圀を見染めたと口説く。 光圀が平将門を討ち取った物語をすると女は落涙するが、それをごまかすように廓話を始める。彼女は隠し持った将門由来の「錦の御旗」を落としてしまい光圀は見抜ぬかれた。彼女こそ唐国に渡り蝦蟇の妖術(がまのようじゅつ)を覚え復讐を目論む平将門の遺児「滝夜叉姫」その人であったのだ。


NO149 江戸の握り鮨を詠んだ最初の句

自来也(じらいや)又は児雷也は江戸時代後期、芝居小屋(浄瑠璃、歌舞伎)で蝦蟇の妖術(ガマのようじゅつ)を使って大活躍する盗賊忍者で大人気の物語です。 江戸時代は珍しい物を句にするのは、川柳の独断場である。    
 ◆妖術といふ身で握る鮨の飯   
 これは江戸の握り鮨を詠んだ最初の句である。 当時は芝居小屋が立ち並ぶ江戸有数の繁華街である両国、しかも勧進相撲興行の会場でもあった両国回向院前に文政年間(1818~1830)に小さな店『與兵衛』は握りずしの店を開いた。
芝居に登場する蝦蟇の妖術使い自来也が左手の掌(手のひら)に右手の指を二本包み込んで握り、呪文を唱える印形と、江戸前握りずしの開祖「與兵衛」がシャリを左手の掌に握り、その上にタネを乗せて、右手二本で抑えるように握る形状の類似性を目新しく、珍奇さを句にしたのである。


NO150 刺身の名称

現代の刺身の漢字は武家社会では「切る」は忌み詞(いみことば)としたため、「指身」という名称になったが、江戸では「刺身」と「作り身」を区別しなかった。 「和漢三才図會」(1713)では 「肉塊を細く切るを膾(ナマス)となし、大に切りたるをサシミとなす」と述べ、 さらに「魚肉薄く切るをツクルという」とも述べてる。 上方では頭付のようにきれいに盛り込みを 「お作り」と称して、簡単に作るを「刺身」と区別している。


NO151鮨新聞 江戸の豊かな食文化と食材

「和食」が無形文化遺産に登録されたということは、主食であるご飯(コメ)を基本に日本人がその環境のなかで築き上げてきた食の知恵や工夫や慣習。それを編み出した人々など、有形無形のすべてを「和食」と呼び、日本人の伝統的な食文化を総称する言葉で、長年に亘って継承されてきたものだ。  和食ならではの料理としては「すし」を挙げる人が最も多い。日本の伝統的な食文化の「すし」を今後どのように次世代に繋いでいくのか重要である。
昔からその時代時代に新しい工夫を伝統に加え次の世代に繋いできた歴史があり、日本の伝統すし文化を見直すよい機会になる。
江戸時代の調味料と輸送の歴史
ルメ時代となった江戸後期には、さまざまな料理が生まれた。食材の充実はもちろんだが、すし調理に欠かせない調味料も飛躍的に発展した。 江戸に人口が集中していくにつれ、米、塩、酒、酢、醤油等は天下の台所大阪に求めることになり、大阪から江戸への商品輸送網が発達。 その輸送手段として、菱垣廻船、樽回船が登場2日半で走ったという。 コメの輸送には、利根川の河口の銚子から大川(隅田川)の水運が利用され船によって浅草御蔵に出納された。 醤油の産地は銚子と野田どちらも水運に恵まれていたが江戸まで大量に輸送するのに、銚子は利根川さかのぼり江戸川を下る順路で10~20日かかるのに対し、野田は江戸川を下れば1日で日本橋に着くので差は歴然だった。
江戸時代の米 給金や税金でもあったコメは政治経済の根幹としての役割を担っており、大名の身分はコメの単位である石高で表されていた。 中菰野村(現三重県こもの町)に生まれた佐々木惣吉は、苦心の結果、嘉永元年(1848年)にできあがった関取米は、茎が丈夫で倒れにくく、質も良くおいしい米として受け入れられ、利根川沿いの洪水による凶作に悩まされていた関東平野一帯に関取米を栽培するようになった。とくに東京の「江戸前鮨」では、関取米のにぎりが大好評を得た。
上方(大阪)のすし屋の飯炊きは薪炊き、江戸(東京)は炭炊きであった。 炭炊きの場合はやわらかい炭で火の口の閉じ加減、つまりふかす度合いにより、釜底に焦げ飯ができる位のまでふかしたほうが、うまい飯に仕上がる。 現在の調理器具の目覚ましい進歩と生活環境を考えればいまどき薪で飯を炊くなんて理想的ではあるが非能率でもある。ガス釜を使って薪で炊いたのと同じコメを炊くことの研究は日進月歩成果を上げている。 すし職人の多くはすし米の産地、品種にこだわり、考え方を持ちあわせていると聞いている。
TPP参加問題であるが日本のグローバル戦略を考えるとこの大きな動きは無視することはできないながらもすし屋が必要とする品質条件に見合うすし米を提供してもらえるのか。 時代の変化にシフトしながら店の独自の味というものへの挑戦が商売の基本だけにすし屋のコメに対するこだわりは続くのである。
調味料の塩 潮の干潮を利用して海水から採るのが主であった。幕末の頃の産地は阿波の斎田(徳島県)播磨の赤穂(兵庫県)の塩は高級品だった。 塩は飯用(シャリ)には新斎というのがよい。又、魚類用(仕込み)には赤穂を使い、区別して用いていた。 新斎とは苦汁(ニガリ)を除いた塩、徳島県斎田で初の塩田が開かれたので、斎田塩からの呼び名である。 現在は大量需要に対応するには塩田による天日干しでは不向きなので塩水を煮詰める方法で食用塩は国内生産8割以上を占めている。 調味料の酢 古来より各家庭で作られることが多かった酢が、業者によって製造されるようになったのは、需要が飛躍的に増えた握り鮨の流行がその一端となったようだ。
当時、酒粕を利用して作られた粕酢(赤酢)は甘味があってしかも香ばしい風味を含み鮨飯にぴったりだった。江戸への航路も整備され運搬事情が良くなったことと、酒造りの際に捨てられていた酒粕をリサイクルするので価格を抑えられたことが産地として発展につながった。 現在の内容物は米酢に食塩、アルコールの酢がシャリ用として多く使用されている。
調味料の砂糖 享保時代(1727)に八代将軍徳川吉宗が製糖奨励策をとり、サトウキビ栽培を奨励。以後太平洋沿岸・瀬戸内沿岸地方でも製糖が始まる。 明治維新(1868)開国で外国から白砂糖が入るようになり一部の贅沢品から一般家庭の調味料に変わった。 現在は国内生産4割弱で原料は8割が砂糖大根、砂糖は食料自給率の優等生である
調和方(あわせかた)
合わせ酢は塩田の塩と酒粕酢(赤鮓)だけであった。 3年以上木桶で熟成させた赤鮓は塩を入れるとさらに甘味がでた。 江戸前の鮨を営むすし屋では自然の甘さを生かすためにも、砂糖を使用しない。 この酢合わせの調合は門外不出で昔から奉公明けに教えて頂く技術なのです。 現在は甘いが旨いという味覚になっていますので、ほとんどのすし店は砂糖を使う。理由は「つや出し」と保存性を高めるためである。 砂糖は溶かしただけでは「つや」は出ませんので、塩に食酢を混ぜたら塩が良く溶けるようにいたします。そして上白糖を入れたら溶け易くするために加熱します。勿論、沸騰させてはいけません。
1980年代以降、合わせ酢の砂糖と塩重量のバランスに変化が表われている。 市民アンケートによると 関東・東北・甲越地域は甘味が比較的弱く、酸味の利いたすし飯が好まれる。 関西・九州地域甘味が強く、うま味の利いたすし飯が好まれる傾向がある。 東海・中国・四国地域は関西地域よりもさらに甘味の強い味が好まれる。 という調査結果がある。静岡県は確かに甘いすし飯が多いのは事実である。
調味料の醤油 江戸初期上方(関西各地)の「下り醤油」は高価で庶民の手には届かなかった。 関東醤油は安価であったが味・質とも「下り醤油」には及ばなかった。そこで原材料を大麦から小麦に変えた「濃口醤油」が人気となり下り醤油をしのぐようになった。搾りたての生醤油は、本来の味と香りを大切にするので醤油自体に一切味付けをしない。当時は夏季になると醤油はカビが生じた。味の点になると、カビの生じた醤油の方がうまかったとも聞く。 江戸前のすし屋では生醤油の強い香りが、淡白なすしの味をこわしてしまうので、そこで江戸時代から「煮キリ」といいまして生醤油を、各店独自の工夫で味を作り上げております。
関東醤油の産地の中でも下総(千葉県)の銚子のヒゲタ、ヤマサ醤油と野田のキッコーマンが台頭し、醤油市場の覇権争いとなる。最終的には野田の醤油が制覇した。
江戸の外食店 江戸時代は、日本の歴史の中で食文化の発展が最も著しく花開いた時代でもあった。人口100万に膨れ上がった大都市江戸、その半数を占める町人たちの多くは、すしの早さ、安さと気楽さから、棒手振りから屋台へと大流行となり、庶民の日常食になっていった。 江戸末期から200年間不動の人気商品になったすし屋のすしである。その要因は魚介類漁獲法の発達、調味料の品質向上と充実、更に流通システムの変革であることは言うまでもない。


No152 「江戸を食す」江戸の調味料醤油

文化の中心が上方から江戸に移ってくる幕末の時代になると、「京の着倒れ、大阪の食倒れ」と言われた上方の食も、食文化の中心は江戸に移り、上方の影響を離れて江戸独自の味覚をつくりだすようになった。 端的に示しているのは調味料の醤油である。以前の江戸醤油市場は70~80%が下り醤油(関西)によって占められていた。 銚子や野田の関東醤油は品質的にも劣り価格も半値だった。そこで霞ケ浦周辺の常州大豆、常州小麦産地を手近に控え地の利に恵まれた関東醤油は、上方の色を薄く仕上げる薄口醤油に対し、関東醤油は小麦を多用した、香り高い濃口醤油をつくりあげた。 醤油の産地は銚子と野田どちらも水運に恵まれていたが江戸まで大量に輸送するのに、 野田は江戸川を下れば1日で日本橋に着くのでコストも安くなり、天保13年(1842)ごろには、高い運賃をかけて海路はるばる運ばれてくる下り醤油と、地元の関東醤油はほとんど同じ値段で売られていた。 元治元年(1864)幕府が江戸市中の諸物価引下げを命じたが、例外的に品質優秀な関東醤油は価格据え置きを認められた。関東醤油の品質はそれほどの向上をつげたのである。 江戸が発展するにつれて、次第に関東、甲信越、東北などから移入者が増加し、江戸の味覚が、関西の薄口から関東の濃い口に代わってきたことも、その背景をなしている。


No153 「江戸を食す」江戸の食倒れ

商品経済の発展は、江戸市民の生活を大きく向上させた。 たとえば菜種作の発展は灯油の普及で夜の闇から解放した。これは夜の食事を可能にし、一日3食の食形態を一般化した。 木炭の商品化は火鉢や炬燵(こたつ)の暖房を可能にして、冬の寒さから解放し外出を可能にした。この木炭を利用する火鉢や七輪(銭壱分もかからず七厘で煮炊きできるから「七りん」と呼ばれたという)は小鍋を使ったきめこまかな調理を可能にした。 食生活の向上につれて文化、文政ごろにかけて料理ブームがおきる。 長い歴史の中で洗練された上方料理にたいして、貧しく粗野であった江戸の食も、幕末には上方をしのいで、「食は江戸」、「江戸の食倒れ」という状況をうみだすようになってきた。


No154 「江戸を食す」江戸の初物食い

「初物を食べると七五日寿命が延びる」と、言い伝えられ、日本人は昔から初物すきで中でも江戸っ子の初物好きは際立っており、最高位を付けたのは初鰹であった。 家康公が駿府城で大御所として君臨していたころ「駿河国で珍しいものが有れば献上せよ」と下知あり、毎年四月上旬、親指ほどの育った折戸の初茄子(三保、折戸地区は温暖で日照時間が長く、砂地なので作物の生長が早い)を献上。それ以来、歴代将軍にも三度飛脚によって、およそ三十六時間で江戸将軍家に献上していた。 初物・走り物が高価で売れるとなれば少しでも早い時期に野菜を出荷しようと努力する。江戸では寛文年間(1661~72)の頃、砂村中田新田(東京都江東区北砂)の農民、が促成野菜の茄子、胡瓜、菜豆(インゲン豆)の栽培を開始したと言われています。 この技術は江戸ゴミをリサイクル(日本橋魚河岸の魚のゴミ堆積し、醗酵熱を利用し、収穫が早める)する方法で、茄子は三月中旬には将軍家に献上した。 初物を食べるというぜいたくが広がり過 ぎると、農家は米麦など基本食料の生産よりも、高く売れ、利益の大きな野菜作りに精をだした。 農民は初物づくりは魅力で力を入れるようになり、幕府の禁制をくぐって、ますます発展していった。 また、庶民のぜいたくは、身分制度をゆるがすことなり、将軍家への初物献上の時期「茄子は五月に入荷差上事」触書が出されている。 階級社会の格式、門閥主義に対する町人たちのささやかな反抗意識が、誰でも銭さえ出せば人に先がけて初物を賞味できるという、初物主義となって現れたのであろう。 初物喰いは実質的な味覚の問題ではなく、あくまでも江戸っ子の見栄であり、意地であった。だからこそ、富裕な階層の人々ばかりでなく、裏長屋の住人たちまでが、その風潮に加わったのである。 とりわけ江戸っ子が熱狂し自慢をしたのは北条氏綱(1537)が小田原の海で舟に鰹が一尾飛び込んできた。「勝負にかつを」と喜び以後、出陣には必ずや鰹を用いて関東一円を征服に成功した。その先例にならって鰹や鰹節を「勝男」「勝男武士」になぞらえて縁起物とし、徳川家も鰹を珍重したため江戸中に流行した。


NO155 「江戸を食す」江戸のうなぎ蒲焼

 

上方のうなぎの蒲焼は、腹からさき、切り身を金串に刺して、素焼きしたものをタレにつけて、焼きあげる。 江戸のうなぎは脂肪が強くて、肉質が硬いため、素焼きしたうなぎを「蒸して」からタレをつけ、再び火にかけて焼きあげる。 上方の腹開きにたいして江戸は蒸すので4本の串を打つ必要から背開きなのである。 こうして蒸しの技術が考え出され江戸の蒲焼は文政の頃完成した。 上方の色を薄く仕上げる薄口醤油に対し、ちょうどこのころ江戸では小麦を多用した、香り高い濃口醤油の関東醤油をつくりあげた。 味醂も普及した時期でもあり、味醂を加えることにより蒲焼の味や香りや照りが格段によくなった。 元来「江戸前」という言葉はうなぎの場合に用いられた。江戸前のとりわけ美味しいうなぎは、深川、神田川でとれた天然ものといわれていた。 土用の丑の日のように、需要が多く、良質のうなぎが確保できなない日には休業する有名店も少なくなかった。 しかし、他の地方からくるものは「旅うなぎ」と言って、「江戸後」(えどうしろ)として区別し、需要をまかなっていた。 文化,文政年間(1803~1830)、ころ、「江戸後」の旅うなぎで鰻丼(うなぎめし)が日本橋の芝居小屋で売られようになり、割り箸も同時に考案されたのである。第にうなぎの蒲焼から生まれた「江戸前」の名称は、握りずしに受けつがれるようになった。


No156「江戸を食す」初物とすしの贅沢で奢侈令

江戸っ子の初物好きは際立っており、最高位を付けたのは初鰹2両(12万円 )であった。 家康公が駿府城で大御所のころ毎年四月上旬、折戸の初茄子(静岡市清水区三保、折戸地区)を献上。 江戸でも促成野菜の栽培を開始した。茄子は三月中旬には将軍家に献上した。 農家は米麦など基本食料の生産よりも、高く売れ、利益の大きな野菜作りに精をだした。 結果、将軍家への初物献上の時期「茄子は五月に入荷差上事」触書が出されている。 階級社会に対する町人たちのささやかな反抗意識が、誰でも銭さえ出せば人に先がけて初物を賞味できるという初物喰いは実質的な味覚の問題ではなく、あくまでも江戸っ子の見栄であり、意地であった。 だからこそ、富裕な階層の人々ばかりでなく、裏長屋の住人たちまでが、幕府の禁制をくぐって、その風潮に加わったのである。 大阪から進出して深川で開業した堺屋松五郎の「いさごずし」は、通称「松ケ鮓」。 この店の商売は派手で、しかも価格は常識を外れるものだった。 「心つけ給えと言って鮓の中に壱朱銀などを入れおきしなり・・・・」とある。すし飯の中に壱朱銀(3,75,0円)を入れる話には驚かせる。堺屋松五郎の商策は大当たりで、店はますます繁盛の一途をたどる。 松ケ鮓のすしは5人前3両(18万円)で天然木、本漆の高級漆器込み。当時の高級品好みの金持ち町人に好んで食されるようになった。 そのあまりの贅沢ぶりから天保の改革(1841~43)老中水野忠邦が奢侈(しゃし)禁止令ですし屋200人以上召し捕えた。当時、かけ蕎麦は一杯150円の時代。


NO157「江戸を食す」江戸の握りずしの盛り付け

天保年間(1830~43)初めころの製作三代豊国の『見立源氏はなの宴』には、白木の出前桶の中に「重ね盛り」になっている。 著者によると「握りずしはこのように積み上げるのは本筋」平面的に並べる盛り付けは「流し積み」と呼び、遊廓の料理屋やそのかいわいの屋台等の悪所でのやり方であった。 また、戦前は「流し積み」を家庭に出前すると「堅気の家に台屋(遊廓用達の仕出し屋)のすしを持ってくるな」と怒られることもあったという。 明治から大正にかけての東京のすしの積み方。著者が再現 現在の全国すし連合会技術大会では海苔巻は重ね盛りが基本


NO158「江戸を食す」コノシロとコハダあれこれ

コノシロ(水産学名)は出世魚として知られている。コハダは8cm位で1貫づけ、コノシロは15CM位で姿ずしにする。 現在でもコノシロを食べる最も多い地域は、岡山、広島、徳島、熊本等中国、四国、九州地方で日常・行事食双方で利用されている。 一方、北海道、東北、関東、中部地方は「コノシロ」を食べない地域であるが、「コハダ」は食べ、利用状況に地域性がみられる魚である。 小川顕道(おがわ-あきみち)は徳川吉宗が小石川御薬園 (現在の東京大学) に作った療養所の所長だった頃、当時の風俗を描写した「塵塚談」(文化11年1814)のなかで、 「武士は決して食せざりしものなり、コノシロは「この城」を食うというひびきを忌(いみ)てなり」とある 武士、町民共々「江戸城を焼く、切腹の際焼いて出されると死臭がする」といって嫌われ、 出世魚のコノシロを若魚名の「コハダ」と呼べば将軍に気兼ねなく食べられるとそれ以来、江戸方言とし、江戸の人々はコノシロとは呼ばず「コハダ」と呼ぶようになったという。 平賀源内は「根南志具佐」(ねなしぐさなし)(宝暦13年1763)の中で世相を風刺した滑稽小説で「コハダのすしは諸人の酔いをもたらす」と、すしと酒との相性の良さをしみじみと賛美し「土用丑の日のうなぎ蒲焼」と同じくPRしている。 江戸ではこのようにコハダはが好まれていた。 一方、各地にコノシロの名前の由来や内容が異なっても「子の身代わり」「娘の身代わり」「飯の代わり」という伝説が多く知られています。  熊本では江戸時代から「コノシロの姿ずし」が正月に欠かせない縁起物の一品としてたべられている。 韓国ではコノシロは焼く匂いにひかれて、家を出た娘が戻ってくるので「盆に娘を呼び戻す魚」と言われます。 このように地域によりコノシロ、コハダの価値が違うのも不思議な魚です。


No159「江戸を食す」黒田官兵衛の小田原城攻めと漬魴

戦国時代の武将、北条早雲の子、北条氏綱(うじつな)が小田原沖で鰹釣りの見物をしていると一匹の鰹が氏綱の船に飛び込んできたので「戦に勝つ魚が舞い込んだ」と大喜びし、その後、その船で武州の兵 との戦いに出かけ大勝利を収めたため、それ以降、鰹節(堅魚節)を出陣の祝宴には欠かさず供したということです。 ●豊臣秀吉の上洛の命を受け、北条家の説得を引き受けた黒田官兵衛は、北条氏政(天文7 1538~1590)に和睦を勧めた。 小田原城に乗り込んだ黒田官兵衛は、北条氏政・北条氏直と面会し、「北条家の未来は、豊臣秀吉と和睦し、伊豆(静岡県)・相模(神奈川県)・武蔵(埼玉県)の3国を領有して、先祖の霊祭を存続するべきこそ、北条家100年の大計である」と説得した。 そして、黒田官兵衛は頃合いを見計らって、美酒2樽と漬魴10尾を贈り、籠城の鬱憤(うっぷん)を慰問した。 さて漬魴とはどのような魚か ●魴=ホウ(トガリヒラウオ) コイ科の淡水魚。尾は白いが疲れると赤くなるので「苦労がの激しい」たとえ。●魴鰹=真魚鰹(まなかつを) 「カツオ」の名が付いているが、イボダイの仲間のマナガツオ科に属する。 産卵前の身の張って旨いのが、初夏から夏にかけてである。今でも京都では懐石料理に魴鰹西京漬を好んで用いられ、高級魚として扱われる。 『本朝食鑑』によれば、江戸では鰹を生で食べることができたが、京都では紀州や伊勢から遠すぎて手に入らなかったので、鰹と同じ漁期のマナガツオを鰹の「生」に学びなぞらえて賞味し、ここから「学鰹」と呼ばれたとある。 ●鰹・堅魚(かつを)は「鎌倉の海に鰹といふ魚(うお)は、かの堺(さかひ)にはさうなきもにて」と徒然草(随筆)にある。 徒然(つれずれ)とは「状態が変わらず長々と続くこと」が本来の意味の解釈である 黒田官兵衛は、北条氏政・氏直の心中を計り知り、魴鰹=真魚鰹を送って和睦に一役に担った黒田官兵衛の剛胆にして洒落なるに北条一族は驚いたのである


NO160「江戸を食す」江戸のすし雑話其の1

「昔のすし職人はすわっていて、客は立ったままだった。 それで、目の前に来るお客の口の中をのぞき、舌の上に残る飯の量でその炊けぐあいを判断した。 上手に炊けていたら、ひと口で舌の上にはほとんど飯粒は残らないはずである。」 明治・大正時代の職人のシャリに対する繊細さがうかがえる。


NO161「江戸を食す」江戸前の鮨を「おまかせすし」で

「江戸前鮨の暖簾店」は全てのタネに手を加え、旨味を引き出す「すし漬け」技術を江戸時代後期から伝承されている。 昨今の客様の嗜好の変化、加工技術の進歩があり今日のようなすしは明治・大正時代を経て昭和初期に完成をみました。この洗練された加工技術を「江戸前の鮨」と理解して頂けたら良いのでしょう。 お客様の要望が強い生嗜好より、旬にこだわり「自分独自の江戸前の鮨をお客様に食べていただきたい」 ヒラメ、マダイの昆布〆、煮ハマグリ、シャコ、アサリ(深川)の漬け込み、コハダ、酢アジはオボロをかませ、酢にくぐらせたシロキス(滝川)、サヨリ、カスゴ(春小)の光物は昆布〆。イカ印籠詰め、蒸しアワビ、煮ホタテ、煮イカは煮ツメ、クルマ海老、小柱の甘酢漬け。柔らかな煮タコ(桜煮)の漬け込み。マグロはヅケで、江戸前アナゴをは「さわ煮」や「漬け込み」で煮て、スダチと塩、煮ツメで握る。 しめは厚焼き玉子で。 伝統的な木桶で3年以上熟成させた吟醸酒粕をベースに米酢をブレンドした「赤酢」のシャリが口の中でホロリと崩れるところにたまらない美味しさを感じられる。 是非、「おまかせのすし」をお勧めいたします。


163「江戸を食す」マアナゴの現状

マアナゴは老化防止や風邪予防 アナゴには肌を整え風邪を予防するビタミンAと、老化防止に効果的なビタミンEが含まれた美容にいい食材の一つです。
生態
アナゴ類の多くは沿岸から内湾の水深100m以浅に見られ、昼間は岩などの 物陰に隠れたり、砂や泥の中にもぐって身をひそめたりしていますが、 夜になると活動を始め、餌を求めて海底付近を這(は)うように泳ぎ回ります。 餌となる生物はゴカイなどの多毛類、エビ・カニなどの甲殻類、イカ・タコなど
用途
味がウナギにも劣らず美味で、天ぷら、蒲焼き、すし種、吸い物、丼など いろいろな形で賞味されます。
漁法
マアナゴは一般的に、籠漁、アナゴ筒、釣り等で漁獲されます 漁獲量が減少している。ウナギと同様に養殖技術が確立されていないアナゴ類の 資源を守るには、乱獲を避けるための工夫が必要です。網目を大きくする、漁法を変更するなど、小さなものまで獲ってしまわないような方法を採り入れるようにしています。
漁場
マアナゴの漁場としては、江戸前と言われています東京湾の隅田川、江戸川等河口堰(せき)。 瀬戸内海一帯の河口、特に兵庫県の加古川の河口堰広島湾の太田川河口堰 全国で見るとこうした大きな川が流れる河口堰にはマアナゴが育つのに好条件が 揃っているようです。
美味しい条件
ダムのない落葉樹に覆われた河川が流れ出る河口一帯で捕れるアナゴであること。 その河口堰(ぜき)の泥地に潜む小魚、小海老、そして多種な甲殻類や線虫類を餌にしているアナゴであること。 海流が有り、穏やかな湾に育つマアナゴであること。 こういう環境で獲れるアナゴは、けっして大きくはないが身が肥えてずんぐりとした頭が小さく短いのが特徴です。 特にお腹の部分が飴色(黄金色)に輝いているマアナゴは特級の味を持っています。
輸入
マアナゴの輸入は、韓国、本流となっております。 今後の国内産のマアナゴの漁獲量が伸びることはありません。
国内漁業の現状
マアナゴ激減!ここ数年不漁続きだったが、今年はさらに漁獲が激減。 値段が高騰して、ウナギを超えるケースもあり。 1995年13,000トン、2010年5,000頓、2014は2,500頓と大不漁になっている。価格も1キロ4千円になり、ウナギを上回る。
漁獲激減の原因
専門家は海水温の上昇を挙げる。 そして、マアナゴを生業とすることの出来る漁師が世代交代していないことが要因です。 マアナゴ漁は、昼間の作業、夜の漁。 時間の不規則への辛抱が最も求められる漁のひとつです。 水温が最近30年で1度上昇しているほか、暖冬の翌年にはアナゴの水揚げが減るというデータもある。 夜行性のハモの胃内容物を調べたところ、15匹のうち6匹がアナゴを食べていた。 駿河湾のサメも穴子を大量に食べていた(焼津の深海魚 漁師の長谷川さん談) 「アナゴの不漁は地球温暖化が主原因で、ハモによる捕食が追い打ちを掛けている。 漁を控えても効果はなく、手の打ちようがない」と話す。
養殖
「養殖中心のウナギに比べ、アナゴは天然が主で人気が上がっていた。この不漁で、地物の価格はウナギをしのいでいる」 「稚魚も不漁続きなので、マアナゴの完全養殖は難しく厳しい」とみている。

江戸中期の百科事典「和漢三才図会」には「漁人はこの魚(アナゴ)をあぶってウナギと偽る」という記述がある。 こんな昔話が理解できなくなる日が来たのです。

参考文献 「マアナゴ資源と漁業の現状」、(社)日本水産資源保護協会


参考文献 成瀬宇平 すしの蘊蓄旨さの秘密     

参考文献 師岡幸夫著 鶴八鮨ばなし       

参考文献 早川光著 「日本一江戸前鮨がわかる本」

参考文献 宮尾しげを 「すし物語」  

参考文献 吉野曻雄著 「鮓・鮨・すし すしの事典」

参考文献 著者 吉野曻雄 「すし技術教科書」

参考文献 渡辺善次郎著 「江戸が和食をつくった」

参考文献 篠田統 「すしの本」


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穴子の魚竹寿し

すし専門調理師・調理技能士

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