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鮨の魅力は「一貫食べるたびに別の食欲が刺激されて次はなんだろう」と期待する

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〒424-0886 静岡市清水区草薙122

すしの知識11「江戸を食す」すしの知識

NO121 シャリを握る極意

名人といわれる某鮨職人の握りは「やわらかく、空気を握りようなのだ。タネにシャリをのせてから親指で軽く押し、くるりと丸める。シャリ一粒と一粒のあいだに空気が入るため、やわらかく感じる。それを食べると、歯切れのいいシャリと上等なタネがからみあい、シャリガがホロリとくずれて、えもいわれぬ味をひきだすのだ。魔法の握りとはこのことだ。」と語る某作家


NO122 穴子にこだわる訳

     

すし屋を開業して間もない頃(40年前)以前勤めていた企業の重役に馴染みの銀座寿司幸本店(創業明治18年)に連れていただいた。 二代目主人杉山宗吉氏アナゴの白焼き・備長炭で焼くタマゴ焼きに絶句。 12歳で江戸前の寿司屋に年季奉公に出されたご主人。言葉少なくとも出されるすし料理に教えを頂いた。
老化防止や風邪予防
アナゴには肌を整え風邪を予防するビタミンAと、老化防止に効果的なビタミンEが含まれた美容にいい食材の一つです。
他にもビタミンD、DHAやEPAが含まれており、動脈硬化などの生活習慣病にも効果的な成分が含まれています。また、アナゴの表面のぬるぬるの主成分であるムコプロテインは、胃の粘膜を保護し消化を助けてくれる働きを持っています。


NO123 夏場の白焼きのアナゴ

    

夏場の白焼きのアナゴは脂がのり、これを2ツ切りに腹の方にはツメをつける。ツメをつけたアナゴの甘さと口の中で「トロっと」した感じで「アーッ」旨いと声が出てしまう。しっぽのほうには中指ですりたてのワサビをポンとつけ塩をふって、すだちをかけると口の中を潮風が通り去るような味になる。ウナギにはないソフトで優しい味覚だ。

     

NO124 いかの印籠ずし

江戸時代から伝わる煮いかの印籠ずしは当店では赤イカを茹で、五目ずし(静岡県中西部では昔から干瓢、椎茸、人参、油揚げ等使われている)を詰める。 輪切りにしたところが印籠に煮ていることから印籠詰めとか印籠ずしと呼ばれている。
筍印籠ずし
よくゆで、食べるばかりにした竹の子の底の方の節を残しておき、その中へ 酢飯を詰める。
白瓜の印籠ずし
白瓜の芯を抜き昆布の入った塩水に漬けておき、軟らくなったら30分かわかす。
すし飯を作り、エビ、キクラゲ、アユの骨焼く身、錦糸玉子などを合わせて印籠に詰め、昆布で押す。


    

NO125 魚の塩加減

魚に塩をするのは魚に塩の味つけるためだけと思っている人が居るけれどもそうではない。
本来は魚のアクを抜くために塩をして〆るのです。浅い〆は肉質を傷めるので強めが良い。塩が辛すぎたと思えば水にさらしてから水と塩で戻せば良いのです。
江戸時代に比べると現在の海の汚染はすすんでいるだけにアク抜きをしないで、生のままのすしダネは安心・安全の観点から如何なものか?。この作業は200年前と何も変わっていない基本中の基本である。


NO126 明治生まれの先輩すし職人の教え

「仕事と毎日ケンカして、研究しているような人は、ないんじゃないですか」 「個性的にやっていくすし屋と、企業的にやっていくすし屋の二通りある」。 「玉子を焼くにしても企業的な商売人に徹するなら河岸で出し巻き玉子焼き買ってくれば良い」 「商売人になれないなら自分のところで江戸前の玉子を焼かなくちゃならないということになる」 「そこで、すし屋の職人として、根性を生かしていけばいいじゃないですか」 「年をとってから、まだ小さな店で戦っていると、幸せだなと思いますね」 「いろいろな趣味があっても、本業で苦しむのが一番楽しいんだ」
雑誌 座談会から引用


NO127 タコの足先は捨てる?

以前長老の話を聞く機会があった。「タコの足の先にはタコの毒が溜まるので必ず捨てなさい」と昔からそう教えられていたそうだ。本当の訳は毒があるわけではない。くるくる曲がっている足先は商品価値が無いからである。
アワビのワタ(青い肝臓)もしかり、しびれる毒があるからださない等々。「夏場になればアワビ以外の赤貝、平貝類はうかつには出さなかった」昔は8月に使える魚介類が少なく商売にならなかったとか。
現在は設備が良くなり旬がなくなっている故に多種類のタネを注文されると、それが無いと言うわけはいかなくなっている。


NO128 煮ハマグリ

ハマグリは江戸前の鮨には欠かせない古式のタネである。
沸騰した湯にサッ入れ、湯が吹き上がる寸前に氷水に浸し 更にもう一度湯通しすると軟らかくして煮れる
香を落とさないよう出水管に竹箸にさして水のなかで廻して砂を取り除く ハマグリの茹で汁でつくった漬け汁に漬け込むここが江戸前鮨の見せ所といわれる由縁である
半生で硬すぎず軟らかすぎず汁がたっぷりのハマグリの甘さに煮ツメでとどめをさすと舌になだれかかる 噛んで噛んで噛みしめると二倍旨くなるから不思議だ


NO129 軍艦巻き批判

明治生まれの職人が言ったことがスゴイね。ある雑誌社の対談で
「すしの軍艦巻は素人の流れ作業でもできる。おかみさんが握って、隣で海苔を巻いてスプーンでなにかを入れちゃえばいいんだから、あれは握りじゃありませんカナッペですよ・・・」
「白魚を生で軍艦巻なんて・・昔から白魚は薄味のツユで煮る。握るときは5〜6本ずつ頭をそろえて握る。これを煮たかんぴょうを細く細かく切ったもので1本ずつ結んだものであった」
「昔、アサリを握った深川の掴み漬(つかみづけ)はすばらしい技術でした」
「あまり普及しなかったのは握り方が難しかったからね」
「ありゃ本当に握れないわ」
「今だったら簡単に軍艦巻でしょう」


NO130 シャリきり

シャリは未だに私が切る。1回に2升づつ釜で炊き上げ、飯台に入れる時だが、 昨今、重さが感じられる年齢となった。合わせ酢をしゃもじに垂らし、酢をまわし、しゃもじで切り返し薄くひろげ、玉が出来ないよう繰り返し、繰り返し薄くひろげ水分を飛ばし、窓を開け外気入れ艶を出すが天候条件によっては「うちわ」で2,3回あおぐこともする。人肌を保つには気温が高い季節は「ふご」で保温するが低い時は保温ジャーに入れる。カウンターでは「江戸櫃」に使う分だけシャリを移して握る。大正・昭和初期のおひつは今も現役である。  


NO131 昔の吹き寄せちらし

明治37年5月刊の「御講汁及馴鮨」に(すし研究に欠くことのできない資料として有名) 「すしとはすべて馴れた味覚の育成を基本として、その製法がなされるべきだ・・・」
明治生まれのすし職人は 「単に鮨飯のうえに具(飯のうえに並べるタネを昔は「上(うわ)ぶき」といった)をならべるだけの現在のようなちらしに対して、すしか否かの論がでてくるのは当然ともいえる」
すなわち鮨として生まれながら鮨らしからぬものへ変わってしまったことということである。
「やはりちらし類もすしだ、と確信を持って加工材料のタネを散らす(上ぶき)ちらしを創案されることを願う」
「シャリというものはそのまま食べても美味しくなくてはいけない」魚をのせて美味しいんじゃいけない」
「ちらしのシャリは椎茸、かんぴょう等五目を入れ、その上に酢の物、煮物、玉子、ヅケ(まぐろ)等をのせた」 「上の具は一杯飲むためのもの、下のご飯は後でお椀が出てたべる」 と言った具合だった。


No132 下馬先で鮨売り

武家屋敷の一隅の長屋にいた下層の武士たちは、中間・駕篭かき・槍持ち・奴などである。 生活に困窮していたので内職にも精を出さざるを得なかった。殿様が江戸城に参内すると「下馬先」で手持ち無沙汰でたむろしながら待っていなければならなかった。そこで出現したのが「辻売り」「下馬売り」。
初めは、お茶、麦茶を商った。派手に商売をすれば何時おとがめがあるかわからないので、目立たないよう売りさばいていた。
■「お供侍(おともさむらい)これは何だに入れ上げる」の句。 何を売っているかわからないので「これは何だい?」とききながら確かめて買う。 火を使うことは厳禁。前もって調理した食べ物を扱った。
ちなみに、
・「小さな握り飯に安魚の身を張り付けたもの」とは「鮨=すし」なのである。
・「小魚を串にさして油で揚げたもの」は「天麩羅」。
・「醤油の煮汁の中に入れたつみれやゆで卵」は「おでん」である。 江戸庶民は皆争って買い求め、いち早く時代の先端を行く食べ物になったのである。


No133 ハラン(葉蘭)

ハラン(葉蘭)は抗菌力あるので鮨の仕切り、化粧等に使う必需品である。 ハランは自宅の日陰のところで、手入れをしないでもよく育っている。田舎では簡単に入手できる もう一方に隅笹がある。熊笹とも呼び笹団子、ちまき、笹すしなど古くから笹の風味を利用した食品に使われてきた。 防腐作用があるので鮨の笹きり(飾り笹)に使用されている。又、防腐作用、免疫力の向上に役立ち、薬効があり、体調不良には良いとされ、民間薬として利用されてきた
エビ形の石菖(せきしょう)、松形の石菖、剣笹などが基本である。

     

No134 シャコの漬け込み

蝦蛄を車子とかしゃこと読んだり書いたりしております。 まわりが海老と同じように殻におおわれています。 当店では生のしゃこを年に一回程度仕入れするこがありますが、殻からはがすことが難しい仕事です。 叉、足が早い(傷みが早い)ので魚竹寿しではほとんどが産地で茹で上げたものを仕入れいたします。
江戸前の「小柴」産が良質で特大・大のしゃこは手に入りにくいです。 しゃこは蒸し器で少々蒸します。
鰹のだしを引いて、砂糖・味醂・醤油で煮立てそばつゆ程度の「漬け込み汁」を作ります。その中にしゃこを漬け込みます。冷蔵庫に入れて一晩漬け込んでおきます。 蒸し器で蒸すとしゃこの鮮度の良し悪しが臭いでわかります。

     

NO135 深川飯と深川鮨

羽田沖のアサリは今でも漁獲されている。貝殻は他の産地より背が高く身も大きく味も豊かである。
当時、深川のまわりは海、深川の漁師が味噌汁仕立てにアサリを入れそれをご飯に「ぶっかけ」た「ぶっかけごはん」が「深川飯」で発祥地は富岡八幡宮である 。
明治後期になり弁当用に考え出されたのが「炊き込み深川飯」である これをヒントに「深川鮨」が生まれた 当時、ハマグリとアサリは安価であったのでアサリの鮨を「深川鮨」と言い、すし屋では定番メニューであったが、現在では希少なすしダネとなりました。
作り方 アサリをむき身にして、沸騰したお湯に入れ、軽く火が通ったら、ザルにあけます。 アサリの煮汁に酒と砂糖、薄口醤油を入れて、煮詰めてあっさりした漬け汁を作ります。 アサリは、ワタを取り除き漬け汁に一晩後位漬け込み、ザルに広げ、汁気を除きます。
にぎる時は、1貫に3〜4個使いハマグリと同様にツメを塗ります。

     

NO136 太刀魚の焼き霜造り

太刀魚は焼き霜造りにします。 太刀魚の旬は夏場から11月頃までです。 ウロコがなく銀粉の層で覆われ、皮と身の間に旨みが詰まっています。 皮付きのまま火の通りや味の含みをよくする目的で飾り包丁(包丁で切り目を入れること) します。
次に焼き霜造り(皮目をあぶって焼き目をつけること)した後に氷水にとります。 そうしますと余分な脂肪や生臭さがとれ、皮も美味しく食べることができる。 タネ切りの際は銀粉が取れてしまうので皮目は上にして切ります 悪玉が減るので、動脈硬化の予防、改善に効果があるとされています。

     

No137 江戸前のいわれ

「江戸町中喰物重宝記」とは江戸時代・明治・大正・昭和にかけて、一般民衆が日常生活の実用書として常用してきた書物である。 その中に江戸前と言う言葉は元来鰻屋が使い始めたのを、当時名物店であった地曳きずしが真似し、「江戸前 地曳きずし」が使い始め、後に、鰻屋は江戸前を言わなくなったと記されている。

     

No138 稲荷ずし

稲荷ずしは天保(1830年代)頃名古屋方面で発明された。 棒ずしの変形ともいわれ最初はシャリの上に油揚げをのせたもので、後に袋詰めになった。
当時の発明品で江戸では細長い稲荷すしを包丁で8ツ切りして、ワサビ醤油で食べるという行為は、魚の姿ずしや棒ずしに通じるところがある。
稲荷ずしの形は東西で違う。東の長野、新潟、静岡、愛知県は中央線で半分の切り、枕型に飯を詰めるが、西の京都、大阪、奈良、岡山県は対角線に沿って三角形に切り、富士山型に詰める。
四角形の栃木県では「稲荷とは稲の荷物、すなわち米俵の形に仕上げるもの」だという。カンピョウの産地(昔は大阪難波の木津地方)であることが影響してか、いなりずしをひとつひとつカンピョウで縛った「俵ずし」である。 すし飯も東は白い飯が普通で、ゴマを入れる。西は五目ずしが混ぜてある。

     

No139 鮨組合新聞掲載 其の1すしの変遷

何気なしに すしを「江戸前すし」と言う。では「どのようなすしなのか・・」とただすと「東京湾で漁獲された魚介類で握ったすし」「昔のすし」「握りずしの代名詞」等々の答えが返ってくる。間違いではない。 すしに定義づけが必要か否かはさておいて、世界のSUSHIになっている現況を考えると本来「江戸前鮨」とはどんなすしなのか後述してみる。
「鮓」「鮨」「寿司」の意味 「すし」には「鮨」「鮓」「寿司」の3つの表記がある。 鮨のつくりの旨には物を熟成させるという意味がある。 鮓の作は物を薄くはぐという意味です。 鮓は関西地方 鮨は関東地方のすし店で多く使われている。 「寿司」は当て字ですが、江戸末期ころから「寿司」「寿し」の表現が最も親しまれ使われてきた。 寿詞=じゅし ヨゴトと読みます。天皇に捧げる祝い詞で言編を除いたのが司。
すしの文字の違いはあれども、古代のすしは重石で押し、上方は箱・布巾・巻す(スダレ)で押し、江戸前は手で握って押すことで、馴じませるを基本とした点では同じである。
すしはいつの時代からあったのか
●1200年前の奈良時代の近江のフナずしは魚・塩・飯のみで、重石で自然に熟成発酵させて飯をこそげ落として、1年後に魚だけを食べた。
●800年前の鎌倉時代にはアユずし、サバの馴れずしなどは腹にすし飯を詰め、重石をして漬けられていたが糀の作用で発酵を促進され 米の無駄はせず飯が少し酸っぱくなり、魚も乳酸の味が移ったら、それがなま なましいうちに食べる早ずし化が始まった。これをナマナレといいホンナレの対語である。 ナマナレにしたことで、すしはもはや長期保存の意図を欠落させた。 同時にご飯料理になるのもこの時代からでこれも又、すしの歴史の中では特筆されるべき出来事である。
●600年前の室町時代になると南蛮貿易が開幕し、生活様式が変化し食事も2食から3食になり、京都・伏見の米酢は高価ではあったが素材の味と色をなにより大事にする京料理のために、まろやかでやわらかな酢の味わいの酢ができた。米酢は日本ではもっとも歴史が古い酢であり、庶民に普及したのもこの時期であった。 ●400年前の安土・桃山時代でもアユずしを豊臣秀吉は朝鮮征伐時に糀の作用で発酵を促進させ製造から10日後の丁度食べ頃に届けさせたとも記されている。 昆布で巻いて、上を竹の皮で包み、布巾で巻き締める京都のサバずしができたのもこの時代。
●350年前の江戸時代には箱に詰めて押し、箱から抜き出して切り分ける手法は大阪では「こけらずし」と称しており米酢により2日間という短時間で食べられる押しずしの完成をみた。 江戸前鮨の考案者は御殿医で順天堂病院の先祖
●340年の江戸初期に町医者の松本善甫(まつもとよしいち) が考案の早鮓は箱や重石に詰めて押すといった従来の方式を改め、手で握る「握り早漬け」の方法である。 世間では待つこと無く直ぐに握れたので「待ちゃれず」と言われた。 松本善甫が御殿医になる十数年前のことである。 この握り早漬けは酢酸臭を混じえており、食酢をうまく使ってすしの熟成期間を早めたのではと考えられる。
松本善甫家は代々れっきとした医者であったのではない。元来が会津天満宮の神官で、争いで人を切り、名を変え大阪へ逃れ、後に江戸へ出た。 この者器用な男で、身すぎ世すぎに医書を何冊かかじっただけで開業したところ、運良く当たって大評判になり繁盛する。 ついに幕府に召し出され第5代将軍綱吉に下級武士として仕えへ元禄6年(1693)には、ついに幕府の御殿医に召し出された。 御典医松本善甫は今日の順天堂病院の先祖にあたる。
松本善甫の会津藩(福島県)藩主保科 正之は第2代将軍徳川秀忠の四男。第3代将軍家光(1623〜1651)とは異母兄弟。正之は有能な人物で、さらに家光に忠勤一筋だった。 正之は家光から第4代将軍家綱(1651〜1680)の行く末を頼まれ補佐し、 その後、大老にまで上り詰め、幕府の中枢に参画。 保科氏は3代目保科正容のとき松平に改姓し、徳川将軍家親族の名門として名実ともに認められるようになった 会津藩の保科氏の後押しもあり会津藩の松本善甫の子孫は 五代松本興世(1762〜1792)天明6年(1786)改易になるまで奥医師(歯科) として仕えた。
江戸前鮨開祖の華屋与兵衛
●200年前の文化・文政年間江戸時代、握り鮨の考案者は松本善甫であるが、 それも酒造メーカーのミツカン酢が「米酢を粕酢にすることができたら、もっとおいしくて手軽なすしがつくれるはずだ」と開発したのが酒粕原料の安価な「赤酢」(あかず)。結果、時間のかかる箱ずしではなく短時間で作れる握りすしが江戸では主流になっていく。 握り鮨を本格的に採用して、繁盛店にしたのが両国回向院前の「與兵衛ずし」の主人華屋与兵衛と深川六軒ぼりの堺屋松五郎「松が鮓」であり、優れた商才、その超繁盛ぶりがすし業界に与えた大きな影響も想像がつくのだが、握りずしの創案者かどうかは明らかでない。
しかし、「與兵衛」は「松が鮓」「毛抜き鮓」と並んで江戸の三大すし屋と評判をとり、明治の末まで続いた名店であった。
古い與兵衛鮨の仕事を知るための資料として、與兵衛鮨4代目主人の弟でもある小泉清三郎「俳人小泉迂外(こいずみうがい)が明治43年に記した「家庭の 鮓のつけ方」という本があります。
この本の口絵の部分には、明治10年頃、実際に「與兵衛鮨」で握られていた鮨を日本画家の川端玉章が写生した15種類の絵が描かれている。イカの印籠詰め・太巻き(のの字巻)きす、こはだ等のサイズは現在の2倍〜3倍の大きさである。


No140 鮨新聞掲載其の2江戸前とは

江戸前鮨とは どんな寿司か  日本に来る外国人の多くは日本食=和食のイメージとして、スキヤキ、テンプラ、すしを挙げる。しかし、スキヤキは明治の文明開化の産物であり、テンプラは南蛮由来の料理である。すしは奈良時代から魚の保存食から始まり、江戸中期には上方では箱寿司、江戸後期には江戸で握りずしとして、日本の独自の食べ物として生まれている。外国人のイメージとしてこのなかで和食は、と質問すれば何よりすしを挙げるだろう。
お客様に美味しく喜んでもらえる鮨をつくるための、この洗練された加工技術を「江戸前の鮨」といふうに理解して頂けたら良いのではと思います。
江戸時代から大正時代には確かに鮮度保持が難しいという理由で発達した加工技術とはいえ、生では味わえない美味しさが今日いまだに数多く残っている加工技術があるわけです。
江戸前の語源 江戸前という言葉を最初に使ったのはうなぎ屋だった。 徳川家康は江戸の街づくりに取り組み、江戸城の前の浅い海を埋め立てて土地を造成した。その後この沼でたくさんのうなぎが取れるようになった。 武家屋敷の一隅の長屋にいた下層の武士たちは、中間・駕篭かき・槍持ち・奴などである。 生活に困窮していたので内職にも精を出さざるを得なかった。殿様が江戸城に参内すると「下馬先」でたむろしながら待っていなければならなかった。初めは、お茶、麦茶を商った。派手に商売をすれば何時おとがめがあるかわからないので、目立たないよう売りさばいていた。  
このうなぎに目をつけた下馬先人が、うなぎに味噌をつけてブツ切りにして竹串にさし、焼いて売り大儲けした。江戸(城)前のうなぎの蒲焼の誕生である。  
そのうちに、「江戸前」の呼称は江戸の前の海で捕れる魚介類の呼称となった。  「江戸前」という言葉は江戸寿司に象徴されるように威勢のよさや新鮮さを感じさせる即ち「江戸の前の海」を指しています。
佃煮も同様で江戸前の海の小魚を煮て、佃煮とする話しは
天正18年(1590年)徳川家康公が江戸へ移り住むようになった頃からといいますから、400年以上もの歴史がある話です。 江戸の漁業と家康 江戸幕府の祖・徳川家康公が生涯忘れることのできない苦難に遭遇した時、佃村の庄屋・森孫右衛門、伊賀の忍者服部半蔵正成、堺の呉服商人茶屋四郎次郎清延3人が家康公を助けた物語は逸話として伝えられています。  
そして天正10年(1582年)6月2日の早朝、明智光秀の謀反により本能寺の変が起こり、信長が自刀したのです。  家康は5月に安土城を訪れた後、堺を見物していた。本能寺の変が起こると、堺の朱印船貿易商茶屋四郎次郎清延からの知らせで直接の退路が阻まれていることを知らされ、少人数の武装のない家康一行が、土民が落ち武者にとっていかに脅威にとなるか知り抜いていた。家康は岡崎城へもどることができるか。三河への最短距離である伊賀越えの間道を行くことにしました。 家康は、何度も、「もはやこれまで。腹割さばいて、信長様の後を追う!」とわめいたそうです。その間堺の商人茶屋四郎次郎(大阪府堺市)は土民に金を恵んだり、時には脅したりして、服部半蔵を頭とする伊賀の忍者部隊(三重県伊賀市)にも助けられながら三河へと急いだのである。  一行が、神崎川(大阪市住吉区)にさしかかった時、渡る舟がなかったので焦りました。その時、近くの佃村の庄屋・森孫右衛門は、手持ちの漁船と不漁の時にとかねてより備蓄していた大事な小魚煮を道中食・兵糧として用意しました。一行にとって、佃煮の始まりともいえる佃村の人たちから受けた小魚には、日持ちも良く、体力維持にも素晴らしい効果を発揮しました。佃煮の祖形ともいえる貝や小魚を塩ゆでし干物にした忍者食も伊賀衆と一緒に食べた家康は、佃煮のありがたさを身にしみて感じたのだった。山越えし、やっとのことで三河岡崎城にたどりついたのです。  
以来、家康の佃村の人達への信任は、特別強いものになったのです。その後、漁民30余名も、徳川家の御肴役として江戸に移住をさせ、江戸幕府の台所にも自由に出入させ、江戸前の新鮮な魚介類を献上。主として白魚を献上魚とした。残った雑魚を江戸市中で商いし、暮らしを立てていました。当時の佃島は離島でしたから、海が荒れて漁業が出来ない時のために、昔からの生活の知恵で伝承してきた雑魚の保存を醤油炊きしておきました。やがて雑魚だけでなく江戸前の新鮮な白魚やハゼ、小海老などのいろいろな小魚を醤油で煮込み始めました。 佃の漁師は、将軍家の御肴役だけではなく、江戸の人口の激増に伴う町民の食生活を支える大事な漁業者だったのです。 
幕府は増え続ける江戸住民のお魚確保のために、従来の漁業者を保護してきましたが、漁獲方法が大変素朴でしたので、需要に追いつきません。そこで幕府は、漁業技術のすぐれた関西の漁民を優遇して、どんどん移住させたのです。この孫右衛門は魚河岸の元となる日本橋魚市場(後に築地に開設)開いたとも言われている。「朝の魚河岸は1日で千両動く」ほどに江戸の中でも大金が動いた。
浅草の海苔 江戸の中期までは江戸の味覚といえば上方(大阪)から「下りもの」で江戸中〜後期にかけて江戸の独自のものが、江戸で生まれた。当時は海に近かった浅草を物資の流通拠点としたことから浅草と海苔の関係が生まれる。 上方(大阪)に流通した最初の商品が海苔である。しかし、埋め立てが進むにつれて浅草では海苔の採集ができなくなった。 その後、葛西浦中心に海苔採集がなされた。 寛延2年(1749の263年前)海苔の発生に不可欠な貝類が江戸川の氾濫で埋まってしまい漁具や浮遊物に付着する海苔を採取する漁法はできなくなる。 それ以降の享保ころから始めていた品川に生産地は移る。このころからノリヒビ(木の枝や笹竹を海中に建てて海苔を付け養殖するもの)による養殖が始まり生産量が増大した。
江戸時代末期になると品川の養殖は衰退し中心は大森に移る。生産者の大森の生産者は日本橋ののり商と取引を拡大したので、浅草ののり商人は凋落し、浅草は「あさくさのり」の名前だけを残して脱落する。
需要が庶民に浸透していく手助けは江戸市中を天秤棒で担いで売り歩く「振り売り」であった。 地方に売りに出る「旅師」も、長野県諏訪の人達であった。 山国の諏訪の人たちは厳しい冬を江戸に季節的出稼ぎで海苔を売り歩いた。 のり養殖の技術を地方に持ち出したのも諏訪の人達であった。
江戸式製法が始めて箱根を越えたのは文政2年(190年前)のことであった。(握りずしが考案された時期に重なる) 遠州舞阪の旅籠で始めて生のりを食べた旅師諏訪の百姓、森田屋彦之丞は大森ののりと同じだったので地元に養殖をすすめた。 その後、森田屋は大森から製造法をもらしたと村八分にされ、その後の消息は知る人はいない。
叉、同じ文政2年(190年前)に田中孫七は大森(東京都)の海苔養殖業者で駿河江尻の旅籠 (静岡県静岡市清水区)で三保海苔をたべたところ、大森ののりと同じと判り三保村にまねかれる。同地の遠藤兵蔵らを指導し、文政9年「そだひび法」による海苔の養殖に成功。天保(179年前)年間には清水、江尻にも海苔養殖がひろまった。大森の田中孫七宅は留守宅を壊される仕打ちを受ける。 それほどに江戸湾ののりは閉鎖的な生産、流通のもとで成長してきた。
舞阪、三保の境内で現在も碑が建てられております。

     

参考文献 日比野光敏著 「すしの歴史を訪ねる」

参考文献 著者 篠田統 「すしの本」

参考文献 吉野f雄著 「鮓・鮨・すし すしの事典」

参考文献 著者 吉野f雄 「すし技術教科書」

参考文献 嵐山光三郎著 「江戸前鮨の真髄」