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鮨の魅力は「一貫食べるたびに別の食欲が刺激されて次はなんだろう」と期待する

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〒424-0886 静岡市清水区草薙122

すしの知識10「江戸を食す」すしの知識

NO101 川柳から江戸の鮨と吉原遊廓を伺う

江戸の中期は「古鮨」(なれ鮨)であった。(寛保〜延享―1745年頃)頃の鮨は、 「桶や筥(はこ)に飯を詰め、その上に鮒・鮎・鯖を開いてのせ、重しをかけて漬けて置き、日数を貯えて、酸っぱくなし物を鮨として・・・・」 とある。
 粋な扮装に頬被りの鮨売りの行商人が「鯵のすふ、こはだのすふと賑やかさ」と呼び声を上げながら吉原の遊廓内に出入りして、筥(はこ)を何枚も担いで巡り売り歩いている情景である 「一筥12に切って4文で売る」
とあるので一個4文(低廉なそばが16文) 「口を酸くして呼ぶ、鮨売りの声は、おしつよき客の小言かと疑うばかり」
とあり、夕闇がしだいに迫ってくる頃、吉原の遊廓内の道々を鮨売りは、「ぞめき客」(登楼する当てはないが、何となく遊廓内をそぞろ歩きしている男達)の間を縫う様にして売り歩く。 この頃のすしは握り鮨誕生より50年前のすしである。


NO102 クロアワビの蒸しアワビ

     

生食用や蒸したりするにはクロアワビやエゾアワビですがすし屋では一般的にはアワビといえばクロアワビを指します。
クロアワビで殻が青黒く身が硬い方をアオガイ、殻が赤っぽく身の軟らかい方をビワガイといいます。
すし屋では生食にはアオガイ、酒蒸しにはビワガイを使います。江戸時代から房総の大原のビワガイは絶品で蒸しアワビには大原おこだわり続けているすし店があります。
すしダネとしては生より仕事をした蒸しアワビの方が好まれるのは昨今同じです。高価なすしダネになっている現状ではいささか扱いが難しいくなっておりますのも現実です。


NO103 新子とコハダ語源

    

漬けかたは200年も変わらず1、塩と酢で決まる2、振り塩3、水洗い(塩出し)4、二番酢で酢洗い本漬けは一番酢で
学問上ではコノシロでコハダは江戸の方言 出世魚
シンコ(新子)は4cm〜5cm位
コハダ(小鰭)は 7cm〜10cm
ナカズミは12cm〜13cm位
コノシロは15cm以上
と言われている。 新子
握りは江戸時代には秋の味だった。最近では静岡県の浜名湖から夏には入荷が始まり、東京湾ものが出始める初秋には初物食いでは無くなって来ている
コハダ(小鰭)の言い伝え
魚体の表面が柔らかくて光沢があり美しい、子供の肌から子肌(コハダ)と呼ばれた。
又、小さな魚体の表面が江戸時代の江戸火消しや鳶などが浮世絵に描かれている刺青文化の粋な肌に似ていることから小肌(コハダ)と呼んだ。
学問上の名称はコノシロ(この城)
語呂合わせ、「コノシロを焼く」「コノシロを食う」を「この城を焼く・食う」で武士は縁起が悪く、「腹切り魚」といって切腹のときに供える魚。 江戸幕府のお膝元ゆえ、江戸の方言のコハダ(小肌・小鰭)にした。

     

NO104 すし飯と合わせ酢

すしタネは日々こだわって仕入れしている。一方すし飯のこだわりはタネほどではない。
すし職人の多くは産地、品種にこだわり、考え方を持ちあわせていると聞いている。 私などは長い付き合いの米店に任せて、意見はあまり言わない方である。 只、産地は富山県入善、品種はコシヒカリで古米と新米をブレンドしたすし米だけを お願いしてお任せしている。
新米だけよりも古米を混ぜたほうが握ったときは硬さが保たれ、粘りもあるので、タネとしっかりと馴染みます。 又、口の中に入れるとパラパラとほぐれて、旨いすし飯ができる。
江戸前の酢合わせはもともと塩と食酢だけであったが最近はほとんどのすし店は砂糖を使う。理由は「つや出し」と保存性を高めるためです。
砂糖は溶かしただけでは「つや」は出ませんので、塩に食酢を混ぜたら塩が良く溶けるようにいたします。そして上白糖を入れたら溶け易くするために加熱します。 勿論、沸騰させてはいけません。


    

NO105 アナゴには2通りの煮方

江戸前の野島や観音崎に勝るアナゴは無いでしょう。
明石のアナゴも上物ですが、夏場にかけての江戸前のアナゴは弾力性と脂が有り、煮上がった時の身のふっくらした柔らかさと厚み、そして、甘みは40数年使っているがやはり江戸前に限ります 江戸前の穴子鮨には2通りの煮方があります。
とろけるくらい柔らかくなるまで煮てそのまま握る店。
もう一方は煮る時間を短く、少し硬めに煮上げておいて握る際、炙って供するタイプがあります。
当店はどちらかと言えば、前者の店と同様に舌の上でトロリととける柔らかさになるまで煮て、握る際に後者の店のように頭の方は皮目にパリパリと炙ります。
尾の方は身の方を少し炙って香りを出します。煮ツメを皮目に身の方はユズ塩で美味しさをかもし出しております。


NO106 江戸は欧州より100年早い料理店の出現

江戸は世界的にみても最も早くから外食文化の発展した都市であった。
ヨーロッパにレストラン(料理店)が出現したのは、フランスでは1765年、イギリスでは1827年。江戸の料理店の登場は1657年といわれ100年も早い。
この年大火に見舞われ市中の三分の二が焼失した。その大火復旧工事に、各地から集まっ来た職人、土方などを相手にする煮売屋がたくさん現れた。
その中に奈良茶を食べさせる店が出てきたのが江戸の料理店のはじまりとされている。
田沼時代の最盛期は江戸の都市生活が最高潮を迎えつつあった1777年頃料理屋も急速に増え31軒の名前があげあれている。
すし屋ではおまんずし、深川ずし、笹巻きずしの名がある。江戸前にぎり鮨は與兵鮨が1810年(文化7年)に江戸両国で鮨屋を開業した。
イギリスに出現した頃には江戸時代の1848年(嘉永元年)発行の土江戸市中飲食店案内には江戸にはすし屋97軒、どじょう屋12件、蒲焼屋90軒、そば屋120軒もあった。
このように一定の店舗をかまえた料理屋は中流以上の市民達の世界であったとすれば、江戸市民の大半を占めていた長屋住まいの人々の外食は屋台と振り売りであった。



NO107 サバは酢締めにするのは何故か

本日のサバは長崎県から西へ100km先の長崎五島列島から入荷のマサバです。 この季節のサバは棒寿司・押し寿司用として丁度良い脂ののり具合でです。
すしダネとしては11月から12月出回る秋サバは歯ごたえも味も良くなりますが脂っこさがあります。 すし屋ではサバは鮮度の落ちが早いので、生食用としてすしダネにすることはいたしません。
魚臭さや中毒原因ともなる物質含まれている可能性がありますので、食酢で締めた〆鯖にするのです。 塩であく抜きし、食酢で締めると脂っこい食感が無くなり、細菌の生育も抑制され、鮮度の低下を遅れさせます。
魚臭さや中毒の原因物質が中和されるので、安心して召し上がれるのです。そして、美味しくいただけます。


NO108 どじょう鍋

野田新総理大臣のどじょうのような泥くさい・・・が話題に。 どじょう鍋は江戸下町で古くから好まれ外食料理として普及した。 そのどじょう鍋から新しい「柳川鍋」が天保年間(1830〜43)の初期の頃生み出された。 土鍋に笹がき牛蒡を敷き、骨抜きのどじょうを並べて、卵とじにしたもの。 1848年(嘉永元年)発行の江戸市中外食店案内にはすし屋97軒(関西の箱すし)、どじょう屋12件、蒲焼屋90軒、そば屋120軒もあったと記されている。 江戸前にぎり鮨の出現の1870年よりも40年数年前には家庭料理は商品化されていたのである。


No109「穴子サキ包丁」と煮方

仕込みの中でもアナゴは一番手間隙がかかります。アナゴ捌くには専用の「穴子サキ包丁」が効率良く捌けます。 2代目は女性の鮨職人として魚の下処理を10数年手がけてきましたので、アナゴの内臓を残さずいっきに捌くコツを取得しているようです。 その後の処理には手間が相当省けます。
包丁使い方如何で内臓が残ったままになりますので、その時は骨抜きで内臓を取り除きます。 大量のアナゴを裁くと握力と集中力が低下しますので、若い男性職人でさえも重労働です。
旬のこの時期はまだまだ仕込みは続きます。当店は5kgで40〜50匹入りのアナゴですので「漬け込み」という煮方です。 薄い醤油で、色をつけない白煮ですので骨まで柔かくなり、味も滲み込みます江戸ではメソアナゴといって「まるづけ」できる一匹ごと握る 小さなアナゴを使う店が今でも有り、「爽煮」(さわに)という煮方です。 


NO110 和食回帰

農業や漁業の再興、再生、復興は食から始まる・・・・とある雑誌に載っていた。まさにその通りだと思う。
戦後10年経過した頃はまだ中学校に弁当を持参できない生徒が数名クラスの中にいて、先生が分け与えていた、それだけ貧しい時代であった。
戦後15年経過した昭和35年頃には肉類が多くなり油で加工したおかず類が食卓に並ぶようになった。
しかし、私の家庭では母親がそのような料理法は知らず、日々、魚中心の煮る、焼くの和食であった。 高校生時代、友達の弁当に魚肉ソーセイジが入っており、初めて知った時の珍しさが今でも鮮明に覚えている。
それから50年後の現在、それゆえに生活習慣病や癌がが激増した。母は95歳元気である。私達は欧米の食生活習慣で参りましたので、 母の年齢まで生きられるか疑問であり、将来ある幼い子供たちへの影響を考えるとアメリカ式の浪費ともいうべき消費万歳の生活態度を改めなければ 手遅れになるのではと危惧しております。
魚、野菜、果物等「旬のもの」の素晴らしさを食生活の中に取り戻すべきではないだろうか。真の豊かさは、別のところにあり、命を大切にし、心の温かさを保つためにも、 戦後の消費生活全体を見直すべき、「和食回帰」を唱えたい思いです。
そこで、すし屋の立場から言えることは、「旬のもの」は美味しくて、安価であり、加工技術により更に旨みが加味され、安心・安全の日本料理の「江戸前の鮨」 にしておりますので、生活環境も考慮しつつ、お子様ともども御来店お待ちしております。


N111 海苔巻き

上方と江戸との違い
上方(関西)は「巻きずし」という。江戸(東京)は「海苔巻き」という。 江戸で細巻きの考案されてから太い海苔巻きを「おお巻き」と呼んだ 上方の海苔は焼かない。江戸は焼いた海苔。 江戸の海苔はツヤがあり、パリッとした歯ざわりがある。巻く時はすばやく「巻簀(すのこ&簾=すだれ)」で巻く。 上方の海苔は生(焼かない)だから破れる心配はないのでぬれ布巾に包んで巻く。
江戸風の大巻き
江戸風の大巻きは飾り巻きずしに見られるように派手に巻く。これらの海苔巻きは明治初期に考案された。 当時、江戸料理は見た目の楽しさを追求するあまり、食べてみての旨さを忘れかけて命取りになったともいわれている。
細巻きすし
昨今は細巻きすしを切らずに1本のまま食べる人が多くなっている。 食べるには理屈は抜きにして要は旨ければ良いのであるが、 昔から細巻きすしの包丁の約束になっている事は承知しておくことも必要である。
細巻き(かんぴょう巻)は戦前までは三つ切りが普通であった。これを江戸ッ子は遊び言葉でチャンチキ(馬鹿囃しの太鼓の撥が2本だから)と呼んだ。
戦後になって一切れ余分になるので四つ切りにするのが常識となった。何故か判らないがすし屋の先駆者達はオボロ巻は四つ切りの方が旨いと言う 但し、鉄火巻、玉子巻、穴子巻は六つ切りである。
カッパ巻、お新香巻、奈良漬巻は合間に食べるお茶うけ代わり(お菓子がお茶を引き立てるとう意味に転じ、「お茶請け」という語が使われるようになった・・・)といことで巻きずしは1本を八つに切る(八つにおろす)と約束事になっていた。


NO112 江戸時代のすし屋も高級内店・普通内店と屋台店

江戸時代のすし屋も3の形態がありました
1つ目は内店で高級な店は出前・お土産と同時に料亭式に座敷でも食べさせました。 「松が鮓」、「與兵衛」、「毛抜き鮓」を江戸の三大すし屋。 「名ある鮓屋は江戸時代末期には屋台店を置かず・・・・」とあるように格式を重んじた。
2つ目は普通の内店は出前と土産用にすしを握った。
一軒の店をもつ以上、食べる時間、丁度其の時に旨くなければいけない。即ち馴染ませる江戸前の鮨を伝承している店である。 内店の中には夜になると付属屋台を本店とドッキングさせて店内に取り込んで営業した店もあった。
3つ目は握るそばから食べていくのが夜の屋台店のことです
一軒の店を持つことが出来ない資本力の少ないすし職人は日暮れを合図に、屋台を引き出して営業したのです。 しかし、お金を蓄積して一軒の店を持つ心構えの乏しいその日暮らしの、向上心のない職人の多かった事も事実であり、すし種も安価な物を使ったし、客の前で注文に応じて素早く握る必要から、ぞんざいな(粗製乱造)仕事になってしまいがちであった。
大正12年の東京大震災以後、その屋台店が東京から無くなって、中には何とか一軒の普通の内店を構えたのは良いが屋台店の粗製乱造の風まで店まで持ち込んだ店も登場した。 そのような店の末路は残念ながら店じまいを余儀なくされた。

     

NO113 穴子箱ずし

東京風握りずし、京都風サバずし、大阪風箱ずしが本来の寿司として定着しているが、各地にその土地伝来のすしがある。
昔から夏には大阪では穴子箱ずしがつき物で1尾 25匁(94g)が丁度良いとされている。
当店でも江戸前の鮨店にも関わらず「大阪風の穴子ずし」をつくる。これもお客さんの要望が強いからである。
穴子の箱ずしには1尾100g以下江戸前のアナゴを使用している。椎茸もつき物で味付けした椎茸を細かく切ってシャリの間に挟みます。
この夏の時期は脂があるので、脂が出てこないよう包み込んで白煮にして煮て、漬け込みしてありますので焼くときも皮目を下にして焼き、脂が出てこないように強火で焦がさないように焼きます。

     

NO114 すしの変遷と海苔の歴史

■馴れずし(ホンナレ)
●日本最古の滋賀県(琵琶湖)のフナずし 奈良時代(715〜806 )1200年前 魚・飯・塩のみで熟成発酵させて酸味を得て、飯(粟・ひえ)は除いて、1年後に魚だけを食べるこれをホンナレという。 すし用フナは魚体が細い。ニゴロと言う。料理ブナは扁平。マブナ・ゲンゴロウと言う。しかし、このように正式の標準品種名とするのは無理。400年前の書籍にも源五郎フナとある。挿話があまりにも有名ゆえに。 挿話(エピソード)で有名になり名前の由来 錦織源五郎  錦織源五郎というお侍が殿様に琵琶湖で取った大きなフナを献上しそれが美味しかったのでこの名が付いたと言います。  源五郎というぐうたら亭主が女房に追い出されて転々としているうちに琵琶湖のフナになったという話があります。
■生成
●米の無駄は我慢できない日本人は飯が少し酸っぱくなり、魚もソコソコ乳酸の味が移ったら、それがなまなましいうちに食べることが始まった 和歌山県熊野(いや)地方(せき止め湖・世界遺産の熊野古道)にサバの馴れずし、兵庫県のツナシずし(コノシロの一年子)、アユずしは全国的に行われており、漸次早ずし化しつつある。
■いずし
●キムチの日本型で、野菜より魚の方が主となったものと考えてよい。 野菜類を多分に混ぜ 元禄2年〈1689〉)など江戸初期の文献に明らかである。 石川県のカブラずし(カブとブリ)、秋田県のハタハタずし(唐辛子や人参)、近江のフナずし、は糀の作用で発酵は促進される。過去の遺物と化、幕末に至るまで、室町時代さながらの発酵ずしの製法を堅持した例もある。
●発酵ずしの衰退 将軍家・大名・公家などの階層でやりとりされた、贈答用のすしである。明治維新後、献上ずしの多くは、かっての名声とは裏腹に、この機をもって、ほぼ消滅した。
■姿ずし(ナマナレ)
●800年前の鎌倉時代には長良川のアユずしなど腹にすし飯を詰め、重石をして漬けられていました。又、奈良県吉野の釣瓶ずし(1157年生誕、歌舞伎の義経千本桜に登場、平維盛(たいらのこれもり))、大阪符福島の雀ずし(小鯛 創業1652年) 室町時代になると、まず、ナマナレの発生を挙げなければならない。 ナマナレはホンナレに対する語である。ホンナレがしっかり熟成発酵させて飯をこそげ落として食べるのに対して、ナマナレは発酵の早い段階で止め、飯も一緒に食べる。すしが「ご飯料理」になるのはこの時代からである。これは、すしの歴史の中で画期的なできごとである。 この頃には節米意識から米も食べるようになった。
●600年前の室町時代になると南蛮貿易が開幕し、生活様式が変化し食事も2食から3食になり、米酢が庶民に普及したのもこの時期でした。 京都・伏見の米酢は、清酒が原料の、「白酢」(しろず)。 素材の味と色をなにより大事にする京料理のために、まろやかでやわらかな酢の味わいになりました。 対して江戸では「赤酢」(あかず)酒粕が原料なので、色は赤みを帯び酸味のキツさが特徴。コッテリした味付けの江戸料理が求めた味です。
●400年前の安土・桃山時代でもアユずしを豊臣秀吉は朝鮮征伐時に糀の作用で発酵を促進させ製造から10日後の丁度食べ頃に届けさせたとも記されています。
■棒ずし(ナマナレ)
●姿ずしから棒ずしへの移行 もとが姿ずしである。尾頭つきの魚をすしにした場合、頭や尾、背骨などは固くて食べづらい。姿ずしから棒ずしへの移行 そこで、頭も尾も背骨もとって、いわゆる3枚おろしにして、そのおろし身で飯を抱き込ませるという発想が生じる。 これが棒ずしと称されるもので、さらに飯の部分が量的に勝ってくると、棒状の飯の上に魚身を貼り付けた松前ずしやアナゴずしのような形状になってくる。京都のサバずしは焼津のサバを使用している。昆布で巻いて、上を竹の皮で包み、ふきんで巻き締める。
■卯の花ずし 島根県の卯の花ずしおまんずし オカラを使ったサバ姿ずしで、 風変わりな名前の由来  江戸の「おまんずし」は、宝暦の初めごろ(1750年代)、上槇町(日本橋南通)で長兵衛なる男が始めたすし屋である。後に紀伊国屋と称したが、店主の妻の名前が「おまん」で、時の人気役者で女形の(菊の丞)に似た美人として誉れ高かったため、「おまんずし」の名前は知られていた。 おそらく江戸の「おまんずし」が起源ではないかと思われる。
■飯ずし すし飯を主体に、上に魚肉をはったもの
●箱ずしへの移行 切り身漬けの発酵ずしは、酢が使われるようになり、今日的な箱ずしへと発展していく押し抜きすしである。1800年代までは米酢が一般てきであった。
●大阪の箱ずしは「こけらずし」 「こけら」とは、ひとつには木クズの意味がある。薄切りした魚の身を木クズに見立てたのであろう。典型的な「切り身漬けのすし」であり。もうひとつ、「具材は、瓦代わりの薄い板を並べるように、少しずつ隣に重ねながら置いてゆく」瓦代わりの薄い板を指す意味がある。 箱から抜き出して切り分ける手法で大阪ではこけらずしと称しており2日間という短時間で食べられる押し寿司です。 富山県のマスずし・静岡県の田子すしなどは300年前から有った。
■型入り五目ずし 長崎県大村ずし、山口県岩国ずし 長州藩長門の殿様うならせた長門鮓(静岡市)は桜海老が入っていて珍しさと美味しさで。 わが国の箱ずしの中で最も豪華なすしのひとつに挙げられる 長崎県大村ずしは」 容器は「もろふた」底板がはずれるすし箱はキッチリと押し付けるので、できあがったすしは投げてもくずれないことから、「投げずし」とも呼ばれる。
■混ぜずし(ちらしずし・五目ずし)
●起こしずし 一方、箱から抜き出して小さく切り分ける工程を省略するために、箱から抜き出さず、さじですくい取る方法も現れた。さじで起こすから「起こしずし」「すくいずし」と呼ばれた
●混ぜずし(ちらしずし・五目ずし) ついには最初から押しをかけないすしの誕生に至る。これが、混ぜずし(ちらしずし・五目ずし)である。ここに、押しをまったくかけない、前代未聞のすしが誕生した。発酵ずしのホンナレ、生成、いずし。そして、早ずしの姿ずし、棒ずし、箱ずしもまた。必ず押しの工程があるゆえに、これはすしの歴史の中では画期的なできごとだと言える。 静岡市の長門鮓(静岡ちらしの原型)
■印籠ずし イカの印籠漬け、竹の子印籠ずし、白ウリ印籠ずしで空洞の中に詰める
●稲荷ずし 棒ずしの変形 嘉永2年(1849)の随筆『守貞漫稿』によれば天保年間末期(1840年ころ)に、 油揚げの小袋に五目ずしを詰め、「稲荷ずし」「篠田ずし」と称して売る者があっ たという価格は「最も賤価(せんか)」(いやしい)だった。
●巻きずし同様、「見立て」 「天言筆記」弘化2年(1845年165年前)に稲荷ずし流行と有り、最初はシャリの上に油揚げをのせたもので、あった・・・・」と記載されており、後に袋詰めになったとある。 稲荷ずしもまた、巻きずし同様、「見立て」(=あるものをそれと別なものを表す)に端を発した 当時の発明品で、油揚げは、魚の外皮の代用と見られた。
●稲荷ずしを切り売り 飯やオカラなどを詰めたもの細長い稲荷すしを包丁で8ツ切り、ワサビ醤油で食べるという行為は、魚の姿ずしや棒ずしに通じるところがある。 油揚げの切り方は、東の四角形と西の三角形と、ほぼ日本を二分するかたちで分布を分けている。たとえば四角形の栃木県では「稲荷とは稲の荷物、すなわち米俵の形に仕上げるもの」だという。カンピョウの産地(昔は大阪難波の木津地方)であることが影響してか、いなりずしをひとつひとつカンピョウで縛った「俵ずし」である。
一方、三角形では、三重県で「お稲荷さまの使いはキツネ。 だからいなりずしは「キツネの耳を形取って三角形につくる」という。
■巻きずし
●棒ずしの派生形が巻きずし 棒ずしと違うのは魚とご飯の位置関係で、棒ずしでは魚身の内側に飯があるのに対して、巻きずしは魚身をご飯で包む。この逆転現象を、当時の人の遊びの心の表れ 簀(す)の子の上に飯を広げ、魚身を乗せて巻きつけるという今日的な巻ずしは、安永5年(1776)の『新撰献立部類集』が初見えである。棒状になったものを小口から切って食するとあるから、まさに現代と同じである。ただし、「飯めしを広げる前に、簀(す)の子の上に海苔または和紙またはフグの皮を敷き、和紙の場合は、これをはがして食べる」との旨が記してある。
●『名飯部類』(享和2年<1802>)にはワカメで巻いた「メ巻き」が紹介されているし、幕末には、卵焼きで巻いたものも登場する。さらに、芯となる具材も、当初は魚身であったのが、いわゆる精進物にも目を向けられ、嘉永2年(1849)の随筆『守貞漫稿』では、「海苔巻ずしの中身はカンピョウのみ」と解説する。こうして、巻きずしのバリエーションは増えていった。
●薄焼き玉子で四角に包む茶巾ずし、厚焼き玉子で巻けば伊達巻、油揚げで包んだ稲荷ずし、紀州熊野の漬菜の葉で包んだめばりずし(タカナずしともいう)なども広義の巻ずしに入る。
●上方と江戸との違い
上方(関西)は「巻きずし」という。江戸(東京)は「海苔巻き」=(浅草海苔)という。
江戸で細巻きが考案されてから太い海苔巻きを「おお巻き」と呼んだ
上方の海苔は焼かない。江戸は焼いた海苔。 江戸の海苔はツヤがあり、パリッとした歯ざわりがある。巻く時はすばやく「巻簀(すのこ&簾=すだれ)」で巻く。 上方の海苔は生(焼かない)だから破れる心配はないのでぬれ布巾に包んで巻く。
●江戸風の大巻き 江戸風の大巻きは飾り巻きずし(からくりずし)に見られるように派手に巻く。これらの海苔巻きは明治初期に考案された。 即興的で実用的な細工巻でなければならない実用性は昔も今も変わらない。 見て楽しむ嗜好の変化、他業態との差別化等商品性を高める一つの方法と言える。 大阪の乗水(じょうみず)主悦門下で京都の荒木信次(重兵衛)が一流で、今のすしはあくまでも口に入れるものを忘れず、要点をつかんだアッサリした作品を発表(旭出版)) 海苔巻きの芯に工夫をして切った面にいろいろな模様をうきださせる「切出し」がある。四海巻、梅鉢巻、文銭巻などがそうである。 見て楽しむ嗜好の変化、他業態との差別化等商品性を高める一つの方法。 当時、江戸料理は見た目の楽しさを追求するあまり、食べてみての旨さを忘れかけて命取りになったともいわれている。
●細巻きすし 御婦人が最近は長いまま細巻きすしを切らずに1本のまま食べる人が多くなっているが、あまりチャーミングとは言えない。 しかし食べるには理屈は抜きにして要は旨ければ良いのであるが、
昔から細巻きすしの包丁の約束になっている事は承知しておくことも必要である。
細巻き(かんぴょう巻)は戦前までは三つ切りが普通であった。これを江戸ッ子は遊び言葉でチャンチキ(馬鹿囃しの太鼓の撥(ばち)になぞられて)と呼んだ。 戦後になって一切れ余分になるので四つ切りにするのが常識となった。
何故か判らないがすし屋の先駆者達はオボロ巻は四つ切りの方が旨いと言う 但し、鉄火巻、玉子巻、穴子巻は六つ切りである。 カッパ巻、お新香巻、奈良漬巻は合間に食べるお茶うけ代わり(お菓子がお茶を引き立てるとう意味に転じ、「お茶請け」という語が使われるようになった・・・)といことで巻きずしは1本を八つに切る(八つにおろす)と約束事になっていた。そして、切り口を天地にして出すのが定法である。
かんぴょう巻きは切り口を横にして客の前にそろえて出すのがすし屋の定法である。 巻き収めと言って巻きずしを食べてから握りを注文する客がいるがこれは食べ方の邪道である。せっかくの味覚を損じてしまう
●海苔の養殖 江戸中〜後期230年前にかけて、江戸の隅田川よりで浅草海苔生まれた。 それ以降の生産地は品川そして品川がが衰退し大森に移る。浅草は「あさくさのり」の名前だけが残った。(ヒビに付いて9月末頃から成長していく) 江戸に季節的出稼ぎで海苔を地方に売りに出たのは長野県諏訪の人達であった。
淡水湖であつた静岡県浜名湖は500年前の明応6年(1498)の大震災以来海とつながり、その頃からすでに、「あさくさのり」が採取されていた。 遠江舞阪の旅籠で始めて生のりを食べた旅師諏訪の百姓、森田屋彦之丞は大森の生のりと同じだったので文政2年(1819)192年前遠江舞阪に養殖をすすめた。
天保年間(1830〜1843)181年前には清水、江尻にも海苔養殖がひろまった。 今日のようなにぎりずしになってくる始まりは徳川氏が天下を取ってから、主として駿河(静岡県の遠江・府中地方)、三河(愛知県の岡崎地方)といった家康の権力範囲の東海地方からで、そのころは今日みるような「稲荷ずし」と「巻きずし」とほぼ同じ形のもので、旅行者の携帯用便利食として重宝されていたと伝えられています。
大森の海苔は荒川と多摩川と江戸川という3ツの川の真水が入って、淡水の影響は大きく、それと塩水との混じり具合がいい海苔が繁殖するのに丁度良い条件となっていた。 江戸前の魚貝も美味はこの流入のおかげである。 現在も“本場ブランド”を守り続けている産地は江戸湾千葉県富津岬の内房地区で、上総海苔として人気が高く、香りの点では全国一とも言われます。 現在は、佐賀県が生産量、消費量、品質全て日本一である。

     

NO116 江戸前の鮨と徳川将軍御殿医

江戸前の握り鮨は誰が考案したのは約200年前の文化・文政年間に開業した「與兵衛ずし」の主人華屋与兵衛と堺屋松五郎の「松がの鮓」採り入れ広めたという説があります。
又、延宝年間(1673〜1695)に町医者の松本善甫(まつもとよしいち) (生年未詳〜1695)考案したと言う説。 松本善甫(まつもとよしいち) が考案の早鮓は箱や重石に詰めて押すといった従来の方式を改め、手で握る「握り早漬け」の方法ですぐ作れたので「待ちゃれず」と言われた。今日の江戸前の鮨「待ちゃれず」が嚆矢(物事の始まり)ともされ、松本善甫が御殿医になる十数年前のことである。
松本善甫、本人は御典医であり、しかも今日の順天堂病院の先祖にあたるが、代々れっきとした医者であったのではない。元来が会津天満宮の神官で、争いで人を切り、名を変えてを逃れて江戸へ出た。 松本善甫なる者器用な男で、身すぎ世すぎに医書を何冊かかじっただけで開業したところ、運良く当たって大評判になり、繁盛する、ついに元禄5年(1692)幕府に召し出され、常憲院殿(第5代将軍綱吉1680〜1709)に下級武士として仕えへ、禄高二百俵十人扶持(現在の年収に換算すると650万円で男女10人が生活する)を支給され、翌年の元禄6年(1693)には、ついに幕府の御殿医に召し出された。  
松本善甫の会津藩(福島県)藩主は保科 正之。 第2代将軍徳川秀忠(1605〜1623)が慶長15年(1610年)駿府へ赴いている間、下級女中のお静は(お静は天正12年(1584)生まれ、25才の春将軍秀忠の大うばさま付の給仕役として大奥に入る)将軍・秀忠の寵愛を受け慶長16年(1611年)四男幸松として生まれる。
第3代将軍家光(1623〜1651)とは異母兄弟。 話を聞き、弟の存在を知らされた家光は驚きますが、それでも正之をすぐ側に近づけることをしません。保科家の当主として江戸城に登城する姿を、陰からじっと観察します。将軍の弟に相応しい器の男かどうか見極めるためです。 その後、対面しよほど嬉しかったのか、正之を信州高遠3万石から、一気に山形20万石へ。さらに、正之32歳の時、会津若松23万石へランクアップさせました。また、正之は有能な人物で、さらに家光に忠勤一筋だった。
正之は家光から第4代将軍家綱(1651〜1680)の行く末を頼まれ補佐し、 その後、大老にまで上り詰め、幕府の中枢に参画。 保科氏は3代目保科正容のとき松平に改姓し、徳川将軍家親族の名門として名実ともに認められるようになった
秀忠の四男保科 正之は1657年焼け落ちた江戸城再建について遠くを見るだけのものであり4代将軍家綱に断念させた。
会津藩の保科氏の後押しもあり会津藩の松本善甫の子孫は 五代松本興世(1762〜1792)天明6年(1786)改易になるまで奥医師(歯科) として仕えた。
現:徳川宗家第18代当主徳川コ川恒孝(つねなり)様も会津藩の出であります。 第1回世界すし博覧会in静岡の時、徳川恒考18代当主が講演された。その中で、歴代将軍の食膳にはタブーとして供されない食物が色々あった。もちろん「すし」は食べたという記録は見当たらなかったと話されておりました。 このように江戸前の鮨と徳川将軍との関わりがあったことは、鮨に携わっている者として江戸の文化の伝承は必要不可欠なこととして認識している次第です。

     

NO117 川柳と安価なこはだの鮨

蜀山人の歌文化14年(1817)に
 ◆和唐紙にもの書くことは御免酒やこはだの酢に豆腐つみ入れ
というのがある。和紙の唐紙に字を書くことなんか真っ平だ。あれは江戸城のご門の外で供待ちしている人足向きの金魚酒やコハダのすしや豆腐のつみ入れ汁みたいなものだから全部代用品だといった意味である。
井原西鶴の「一代男」(天和2年1682)
◆坊主だまして還俗させてこはだの鮓でも売らせたい
滋賀県大津の柴屋町の遊郭を述べて
◆立よる者は馬かた、丸太舟の水主共、浦辺の猟師、相撲取、鮨屋の息子、 小間屋の若者、恋も遠慮もむしゃうやみ・・・・・
と、すし屋をあまり尊敬していない。古い時代には漁夫同様の殺生商売だか都会人に嫌われたのだろう。
江戸の随筆「わすれのこり」(天保13年1758)は、
◆早春のころは、一夜明ければ小はたの鮨うり、 玉子うり引きも切らず売り来りしが
と、このころをなつかしんでいる。コハダのすし鯛のすしと売り歩いていたが、いずれも数日漬け込んだのばかりだ。
越智為久は60余歳になって安永、天明の交を追憶し、当時の流行物の歌を紹介している。
◆三寸紋五寸模様に日傘こはだの鮓に花が三文
衣服の紋や模様が大きくなったり、だれもかれもが日傘をさすと共に、コハダのすしも流行したことに注目
洒落本『青桜松之裡』(享和2−1802)には、
◆鯵のすふこはだのすふと賑やかさ
◆けちな鮨コハダの皮に飯を張り
◆口を酸くして呼ぶ、鮨売りの声は、
おしつよき客のこごとかと疑うとあり、夕闇がしだいに迫って来る頃、吉原遊郭内の道々を鮨売りは、「ぞめき客」(登楼する当てはないが、何となく廊内をそぞろ歩きしている男たち)の間を縫うようにして売り歩く。
当時その日その日を暮らしている、長屋住いの庶民は安価なコハダの鮨を求めていた。そんな鮨や生活必需品の需要に応じたのが「ボテ振り」と称されていた行商人である。町々や遊廓にも天秤棒で売り歩いていた。

     

NO118 和食とすし

今や日本人は世界中の国々の料理を食べることができる。現在でも和食が最も人気があり、店も多い。日本に来る外国人の多くは日本食=和食のイメージとして、スキヤキ、テンプラ、すしを挙げる。
しかし、スキヤキは明治の文明開化の産物であり、テンプラは室町末期から江戸初期の南蛮由来の料理である。すしは奈良時代から魚の保存食から始まり、江戸中期には上方では箱寿司、江戸後期には江戸で握りずしとして、日本の独自の食べ物として生まれている。外国人のイメージとしてこのなかで和食は、と質問すれば何よりすしを挙げるだろう。
一方、米食を主とする日本の食文化から考えてみると、これは歴史的な味覚として塩・味噌・醤油・酢といった調味料が加わり、米の飯に味噌汁と漬物があれば、おかずは何であれ和食となる。
いずれにしても和食を「日本で発達した伝統的な、季節感のある料理」と定義するならば、すしはまさにその代表である。  

     

NO119 立場茶屋と長門鮓

蜀山人大田南畝の『改元紀行』(文化1年・1804)に、彼が公用で長崎へ下ったおり(享和1年・1801)の話として「十七夜山禅寺も左の方に見ゆ土橋を渡りて立場あり。左に草薙神社の道あり、村の名も草薙ち呼ぶ。小吉田の立場に至れば酒屋あり。小サキ桶に鮎を入れてひさぐ。 長門鮓 (ながとずし)と言う。味よろし」と記されている。(筑波大学付属図書館所蔵)  
今からさかのぼること230年ほどの前の江戸時代(将軍が11代家斉だった1780年頃)、東海道小吉田(現在の静岡市駿河区国吉田)にあった立場茶屋(府中と江尻宿の間に設けられた休憩所)の稲葉屋では、東海道を行く旅人に特産のお茶や山葵漬を旅の土産に販売する傍ら、甘く煮付けたニンジン、シイタケ、タケノコ、コンニヤクに蝦(甘く煮た桜エビ)を上置きした五目ずし(季節によりアユ、アマダイ、タイ、ヒラメの酢〆)を、竹のタガをはめた蓋付の小桶(直径10センチ深さ7センチ)に入れ、小腹を満たす程度のお土産として販売していた。
<復元長門鮓>
中でも桜えびの 桶鮓が長門鮓が美味だった。旬の魚をのせた高級の長門鮓であったが、 安い桶鮓もあり、サバやアジも使った。旅人のお土産や小腹に 入れるにしても抗菌力のある紅生姜(赤梅酢漬け)は必須だった。 <明治32年の稲葉屋>
前が東海道、「御門」がはっきり見える。当時の絵図面にも「御門」があり、 ここから身分の高い人は入り、床の間と庭が見える部屋で休憩された。 これを参勤交代の途中に食した長州藩長門の殿様がたいそう美味しいと気に入り、以来「長門鮓」の長門鮓で店の名物として親しまれるようになった。 
殿様のお国自慢である岩国ずしは別称「殿様ずし」と言われる箱ずしで、その規模や豪華さは全国屈指だが、そんな岩国すし以上に美味しいと絶賛され「長門鮓」と命名されたのは、駿河の国しか獲れない桜えびの珍しさと美味しさによるのではないだろうか。  
駿国雑誌(1817年)に「長門鮓 は蝦等(桜えび)を用ゆ。異壤鮓 (ごもくすし)也」とある。
また、俳人内藤鳴雪がまだ11歳のおり、伊予松山へ帰郷の(安政4年1857)「小吉田で桶鮓を食べたことをよく覚えている。小さな桶に鮓を入れたのを駕籠の中入れて貰ったが、その桶が珍しかった」と追懐している
明治天皇に関しても(明治2年・1869)「京都より東京へ御再幸の 砌 (みぎり)、立場本陣、稲葉方で御休憩遊ばれた折御茶代頂戴」との記録と看板が残されている。
一方、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』では、小吉田のすしは弥次喜多の懐中には無理だと考えたのか、近くの蒲原宿のすしにしようと声だけ聞かせている。  「すしやのふりうり 鯵のすうし、鯖のすうし」 このように立場茶屋は普通茶屋とは異なり、どちらかといえば身分の高い旅人が利用した場所だった。
<歌川広重「東海道53次」19> 江尻立場茶屋 稲葉屋が描かれており、
「小吉田橋」と「名物すしや」がわかる 小吉田は宿場ではないので江尻宿にしたのか? 16代当主稲葉弘さんは 「当時、3000坪の敷地があり、造り酒屋もしておった。 しかし、大名が立ち寄る度に茶店を改装したので、借金を相当した。下級武士やお供の方々はおむすび一人あたり3個あて調達し、休憩場所は近所の民家を利用した と話してくれた。
長門鮓にまつわる歴史には最後にささやかな逸話が付け加えられている。 東海道線が開通してからの稲葉屋は次第に衰退して明治中頃には廃業され、長門鮓も幻の鮓となったが、静岡特産のワサビを使用したわさび漬けの老舗田丸屋(創業明治8年・1875)が、東海道線が開通した際わさび漬けを駅売りすることになり、長門鮓の蓋付の小桶をもとに容器を開発し、それが全国的に有名になった。長門鮓は鮓自体が消えた後も、わさび漬け容器としてなじみの深い丸桶に姿を変え、今日まで引き継がれ人々に愛され続けている。


NO120 魚食文化の歴史

飛鳥時代に「肉食禁止令」がだされ、淡水魚のあゆ、ふなが尊ばれる。
奈良時代も水産物の中心は淡水魚であった。海水魚のたい、あわびは重宝された。
平安時代から魚はサカナと訓(訓読み)まれ始めた。 サカは杯(さかずき)のさかと同じく酒を意味する。 ナは魚(な)と菜(な)の両方の意味から、酒を飲む時の魚や菜の“つまみ”を呼ぶようになった。 最も需要が強かったのは塩さけやさけの卵(イクラ)・氷頭(さけの鼻先の軟骨)で役人の給料として与えられていた。
鎌倉時代でも平安時代と魚食には大きな変化はなかった。
かつをが武士にとっては「勝つ」という語から戦場の門出の魚として縁起が良いとされた。
室町時代になると米を常食とする食生活の基本が形成された時代。 この時代でも「魚は一番で鳥獣は後。魚の中では鯉が第一。次はすずき」と記されている。
江戸時代初期にはまぐろは下魚(げうお)とされていた。 慶長年間(1596〜1614)のことを記した『慶長見聞録』に。 「シビ(まぐろ)は味わいよからずとて、地下(じげ)の者もくらわず、侍衆は目にも見給わず、そのうえしびとよぶ声のひびき、死日と聞こえて不吉なりとて祝儀などには沙汰せず」と書かれている。
江戸時代中期にはくじらが本格的に漁獲され 庶民の魚としてはかつお・いわし・にしんが食されていた 江戸時代後期になると海水魚の沿岸漁業が主軸となり、すしダネのひらめ・あなご、小だい・さば・しらを・こはだ・車えび・あかがい等江戸前鮨には欠かせないすしダネとして漁獲されるようになった。

     
      

参考文献 渡辺善次郎 著 巨大都市江戸が和食をつくった

参考文献 大川智彦著    参考文献

参考文献 渡邊信一郎著 「江戸庶民の拓いた食文化」

参考文献 吉野f雄著 「鮓・鮨・すし すしの事典」

参考文献 著者 吉野f雄 「すし技術教科書」